ラベル 批評 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 批評 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年5月3日日曜日

引用ノック1045:

 実際に「いじめ」の事例を考えてみればわかるでしょう。「いじめ」に遭う生徒がそこからどう回復するかという問題は、「いじめ」に遭った場合にどう生き延びるか、という処方箋には終わりません。どれだけ困難であろうと、そこにはじまり、さらに、どうすれば「いじめ」る社会の硬直がほぐれ、「いじめられ」る生徒の心の硬直もまたほぐれる形で、社会と生徒の双方が再生することを通じ、彼と社会の関わり合いをもう一度作れるようになるか、という最終的な課題がそこには含まれています。

(加藤典洋『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011 下』「第三部 中期 孤立と危機」「第11章 村上春樹、底を打つ。」 ちくま学芸文庫、2019年)

2019年8月7日水曜日

引用ノック1020:

・
 これはかなりの傑作である。が、ラストがどうしても気にいらない。
(……)
 雑誌『シナリオ』の脚本を確かめる。更に撮影台本を手に入れ検証する。
(……)
 いやむしろ輝くような<生>の中にいる。
(……)そしてなおも生きつづけているのです。もしこれを見せてくれたら、一度は死を悟った俺いらも、何か勇気が湧いてくるではありませんか。
(注……この映画の面白さは細部(デイテイール)にある。その細部こそが安曇祐子の、いや、映画そのものの鼓動なのだ)
・
 ここでこの小論もトップに戻る。

(鈴木則文著・小野寺勉編『権威なき権威 カントク野郎 鈴木則文』 2018年8月 ワイズ出版 「神は宿り給う 『病は気から』における喜劇(悲劇)の解読」 「映画芸術」 一九九三年四月)

2019年8月1日木曜日

引用ノック1017:

 解剖学者の三木茂夫によると、人間のなかには植物の生と動物の生とがあるという。園人間の身体をなす二重性が、ここにいうゾーエーとしての生とビオスとしての生の二階層構造としての人間──アリストテレスはこれを「政治的な・生き物」と呼ぶ──の基礎である。
 三木によれば、人体の働きは、植物的で不随意的な内臓系と、動物的で随意的な体壁系に分かれる。内臓系は、心臓など血管系、食堂、胃や大腸などの腸管系、腎臓などの腎管系からなり、夜眠っている間も不断に働くことをやめない。体壁系はこれに対し、脳から脊髄(せきずい)にいたる神経系、筋肉系、そして皮膚の外皮系からなり、人間の意思を形成し、意思に従って動き、可感である。むろんこれは人間に限ったことではない。生物体に普遍の構造であり、魚を解剖すると、

 頭部では、この内臓と体壁は堅く嚙み合って分離が難しく、尾部では、内臓が消失して体壁だけとなってくるが、中間の胴部では、この両者は截然(さいぜん/せつぜん)と「腹─背」にその居を分つ。(「南と北の生物学」『海・呼吸・古代形象』一三七頁)

 三木は、「鯉こく」の輪切りを例に取り、この腹と背の分かれ方を説明する。「鰹ぶし」では「まずこの体壁を左右の半身に、次いで各々を背半と腹半の計四枚におろして造る」。(……)こちらでは間をアバラ骨が走っているが、食肉のばあい、この「腹背」の筋肉が「バラ肉とロース肉」になる。
 私たちは古来、この二つの区別を「おなか」と「背」として意識してきた。「背に腹は代えられぬ」とは、この区別の実感を述べたものだ。「思う」という漢字が「田」と「心」からできているのも、このことを指す。この漢字の「上半分(田──引用者)は脳を上から眺めたところ、下半分(心──引用者)は心臓のかたちで、これは“あたま”が“こころ”の声に耳を傾けているところを象(かたど)ったもの とも、語られている。(同前、一二四頁)。
 三木によれば、私たちが心と呼ぶものの出所は、内臓系である。(……)ところで、彼の解剖学的人間論で私たちの関心と響きあうのは、そもそもが西洋の解剖学的見地からも影響を受けたものでありながら、そこでの脳を中心とした体壁系つまりビオスと、内臓系つまりゾーエーに対する評価軸が、これまで見てきた西洋系の考え方を逆転したものとなっている点である。

(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』「12 リスクと贈与とよわい欲望」「ビシャから三木へ」 新潮社、2014年)

2019年7月30日火曜日

引用ノック1011:

でも、一人の人間にとって必須なのは罪の責任を感じることではなく、まず社会とのつながりをもつことです。これをあの「罪の自覚」から考えていく行き方は間違っている、ということです。あの「オレには関係ない」ということに権利があるか、ないか、という違い──僕は権利がある、と言い、彼らは権利がない、と言います──はそこから出てくるのです。
(中略)
赤ちゃんがいます。ある時、彼が、鏡を見るのです。鏡の向こうに変なものが映って動いている。何だろう、と思うんだけれども、ずっとその鏡像を見ているうちに一つの反転が起こる。そこに何かヒトの形をしたものがある。彼は、「あ、これが自分なのか」と思う。「バラバラな身体」としての自己から、空中ブランコのようにして、いわばその鏡像を先取りするように──「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳でいう「ゲーテ」さながら──その鏡像(ギョーテ)に投身してこれを自分として認める、そういうことがそこで起こっているんだ、そうラカンは言うのです。
(中略)
 『銀河鉄道の夜』は、なぜ忘れられないか アルマンとフレデリックの劇という考え方が僕の中に生まれた時、すぐに思い浮かんだのが、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でした。
(中略)
 村瀬さんは、このシーンに着目した。そして、いつから子どもは、自分の友だちが自分の前で川にはまった時、「大変だよ! ××ちゃんが川にはまったよ!」と後ろを向いて大人を呼ぶのではなくて、自分その声を引き受けて、水の中に入り自分で助けようとするのか、という問いを立てた。これが「いつ子どもは少年になるのか」という村瀬さんの問いなのです。
(……)ここにあるのはつまり、アルマンとフレデリックの劇なのです。
(中略)
 僕は宮沢賢治という人のことを考えるんです。宮沢賢治という人はかなりとんでもない人というか、困った人で、世界のすべての人が幸せにならなかったら自分は幸せにならない、なんて阿弥陀様みたいなことを考えている人ですね。純粋フレデリックみたいな、非常に極端な人なんです。アルマンというのは、この逆ですね。ここで、人は自分だけのことを考えて生きていてもいいんだという、もう一つ別の場所を示しています。(……)でも、そういう宮沢の書く『銀河鉄道の夜』が僕たちの心を打つのは、こうした自己犠牲の心の美しさのせいじゃありません。この作品はそういうもので僕たちに働きかけてくる作品じゃないのです。
 ここにはどういう力学が働いているんだろうか。
 この川の場面に出てくるカムパネルラのお父さんの博士の造型が、ここで一つのヒントになるでしょう。博士がどんなふうに描かれているか。みんなは、どこかからカムパネルラが「ぼくずいぶん泳いだぞ」と言って出てくるんじゃないかと思って待っている。するとポツンと、博士が言います。「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」(中略)
自分の子どもがいま川に溺れて、生き返ってくるか、こないか、という時なんです。そういう時でも、この博士は、「堅く時計を握」り、自分のそういういてもたってもおられない気持を抑えながら、でも、「あなたのお父さんはどうしました? 明日遊びに来てくださいね」とジョバンニに平常心で言うのです。ここにいるのは、極度に自己を抑制できる、抑制してしまう、あの宮沢賢治の一面を髣髴(ほうふつ)とさせる超フレデリックのような人ではないでしょうか。
(中略)
ここで、もう一度あの宮沢賢治のことを思い返してみましょう。宮沢賢治にとって童話とは何だったでしょうか。この人はたしかに、この世の責任を全部自分が引き受けなきゃいけないというようなことを誰よりも強く思っていた人です。(……)
 彼の素晴らしいところは、彼自身はそういう人間でありながら、自分の中にある、このフレデリックとアルマンの、その二つの像の間の劇というものに目を注いだことです。一方は、人のために死んでもいい。一方は、自分のために生きていてもいい。でも、彼はこの劇をどのようにして取り出しているか。この童話の主人公は、やっぱりジョバンニなんです。他人のことを考えたい。でも、お母さんに牛乳を飲ませなくてはならないし、お父さんはいない。自分のことだけで精一杯だ。そういう形でジョバンニを自分の中から取り出せた時、宮沢からこの希有な傑作が生みだされました。
 この最後のシーンは、そういう意味で何度読んでも心に残ります。そこでは、自分の子どもがいなくなってしまった博士と、自分のお父さんがいないジョバンニが、ちょうどはすかいの関係で向かい合っています。(後略)

(加藤典洋『戦後を戦後以後、考える ノン・モラルからの出発とは何か──』 岩波ブックレット 1998年)

2019年7月17日水曜日

引用ノック1010:

ところで、ギリシア社会は、決して無文字社会ではなかった。これは重要です。立派なアルファベータの文字文化圏がそこには成立していたのです。それにもかかわらず、それと拮抗するような形で、伝統的な音声言語的性格が根強く残っていた。これがギリシア文化を特徴づけている、ある直接性の原因ではないか。これがギリシアを西洋文化一般に解消させてしまい得ない、ギリシアのギリシアたる特質なのです。

(川島重成『『イーリアス』ギリシア英雄叙事詩の世界』 岩波セミナーブックス 1991年)

2019年6月16日日曜日

引用ノック1007:

〔……〕ヤスパースは、(核をもつ)ソ連の全体主義を打破するためには、核の使用は許容されうるばあいがある、といっているのです。
 ヤスパースの主張と、「日本のわれわれ」の「心情と論理」とのこの大きな違いについて、日本のヤスパース研究者の方々がどれくらい、立ち止まり、検討を加えられているのかを、私は寡聞にして、知りません。しかし、いま、私たちがヤスパースについて考えるなら、この点の考究は避けて通れないところです。なぜ、このような違いが生まれるのか。(……)私のばあい、これを問い、とりあえずたどりついた彼我の分岐点が、日本の戦争体験のたまたま「生き残った」という原点とヤスパースの「生への決意性」という戦後の起点の違いだったということです。
(中略)
 (……)同じく、道徳上の罪は、主に自分の良心との関係から生じます。というか、それとの相互性のうちにささえられています。例を出せば、そのため、たとえば、殺人を犯した『罪と罰』のラスコーリニコフは、自分の老婆殺しはけっして「罪」ではないと自分の「良心」に照らして確信し、殺害を決行するのですが、母からの手紙を読み、肉親に接するうち、自分がもはや、以前のように彼らとのんびり、くつろいで話すということは永遠にできない、という直覚に襲われて、慄然とします。そして、苦しくなる。その果てに、その確信の崩壊に直面せざるをえなくなるのです。
 これに対し、形而上的な罪は、人間の関係が「きわめて緊密な人間的結合」を見せるばあいに、生じる、といわれています。では、ここにいう、人間としての連帯性(the solidarity of all men)、公民(fellow-citizens)としての連帯性、より狭いグループ(smaller groups)と異なる、「緊密な人間的結合(the closest human ties)」に基づく連帯性とは、何なのでしょうか。それを私は、あるできごとのなかでたまたま生じる絶対的な関係性から生まれる連帯性、つまりたまたま「居合わせる」という、偶然が作り出す絶対的な連帯性──偶有的であるために絶対的でもある人間間のつながり──と定義してみたいのです。

(加藤典洋『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』「戦争体験と「破れ目」」 幻戯書房、2017年)

2018年12月25日火曜日

引用ノック0988:

碑は大理石である。そのうちのひとつ──

ジョン・トルボットの聖なる思い出のために 一八三六年 霜月朔日
パタゴニア沖荒島(デソレーション・アイランド)の近くにて海中に溺没す 享年十八歳
この碑はその追憶のために
姉これを建つ

(中略)
『アメリカの鱒釣り』は、かくて、マヨネーズということばで閉じられる小説である。(後略)

(藤木和子「鯨が生んだ鱒──訳者あとがき」 リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』 晶文社、1975年)



2018年9月29日土曜日

ペスト再訪整備(第六~十夜/全十夜)

村田修一の引退セレモニーの一部を映像で見る。スーツを着ていた。
背番号25は巨人が岡本和真、横浜が筒香嘉智。
ほかにE田中、C新井。Pも好選手が多く、F宮西、S館山、D佐藤優、L平井。T江越大賀とH田中正義が期待枠か。M金澤とBs西村はともに捕手登録。

前にパンチョユニを見かけたことがあり、その背番号が25だった。
伊東一雄へ宛てた手作りユニフォームだったのか。ドラフトで芝草宇宙(ひろし)の名前を読み上げる際に、「宇宙と書く」と強調した記憶がある。Wiki情報によると、「ひろしは宇宙、大宇宙、コスモ」と読み上げたとか。

*

星新一『ようこそ地球さん』は『ボッコちゃん』に収録されなかった42篇を収めている。B面ともあぶれた奴らともいえるが、氏には珍しくウェットな作品もあり(未読だがピンチョンの『スロー・ラーナー』がそんな位置づけと聞く)、自分は好きな一冊だ。

何度かこのブログでも記しているが、『ペスト』(カミュ)はこの『ようこそ地球さん』収録の「殉教」と、『異邦人』は同収録の「処刑」と読み比べると、見えてくるものがあると思っている。シアーハートアタックみたいな自動性ゆたかなスタンドか、入蜀した空条承太郎みたいな奴がいれば、検証&考察をやってほしいが。
イメージは↓の感じです。以上、ペスト五夜でした。


2018年9月24日月曜日

煙か土か食い物30/Note about "Kemuri ka Tsuchi ka Kuimono" ("Smoke, Soil or Sacrifices") (You know absolutely no connection with real life and families)

There the ethics are as "Ethics of Being". Yoshimoto (Takaaki) tells that the understanding point of the turn is, to fully realize equivalentness of each being, putting it another way, that one and another have the same riddle and experienced the same suffering. Therefore he advocades the naming of the new understanding from the events above, "Ethics of Being". It sounds to me as a suggestion that, any human have their own origin of coordinates, where if one is able to return to it has the one make out the emotional ties. ("As to Ethics of Being" Norihiro Kato editing and writing "Murakami Haruki Yellow page PART2" "chapter.5 "Kafka on the shore"" pp.179-180 Arechi Shuppan-sha, 2004)

 Taking this thing into account, the next scene read tender.

"Why does Maruo want to eat meals with the all families? Each may eat whenever one chose. No need to see each other. Leave me alone and I'll do irresponsibly." (pp.170)
 (this part may be not tough and solid in attitude and theory. think again and polish or change a little or.)

And Shiro comes to think that there is a meaning (or point) of life. "Middle of Nowhere" in him reaches "Middle of Somewhere". This partly can be assumed as homage for the famous last scene of "Norwegian Wood".

(Haruki Murakami is now a very very difficult writer and person to tell. One thing I think is, his novel is not bad or sometimes good in a whole except his style. And the second I think is, the scene where the young Hoshino was told, I was disappointed by definition, for example at the way in which action movies were treated, or games like Pachinko.)

2018年9月8日土曜日

引用ノック0971:

読んでいる時間より、頁から目を上げて、あれやこれや考えたりしている時間の方が長かった。それは、最高の読書をしたということだ。もちろん、「最高」の読書には、それを読んでいたらその本から出られなくなってしまったという形態もあるが、ぼくは、考え事をしている時間の方が長くなっちゃったという方が好きだ。

(高橋源一郎『退屈な読書』 朝日新聞社、1999.4)

2018年7月18日水曜日

煙か土か食い物04 /Note about "Kemuri ka Tsuchi ka Kuimono" ("Smoke, Soil or Sacrifices")

For instance, at the next scene below, "kitchen" is brought out as a place including the image of violence.
In a novel "Kitchen" by Banana Yoshimoto in 1988, which is very often underestimated and scoffed off, despite its narrowness, simpleness of writing, and the other points to be disliked, kitchens were perceived positively as spaces where something gives someone some energy or helps to develop one's energy to live on.


plus:
this note has to be added a more solid thinking way as to violence.

2017年9月17日日曜日

引用ノック0943:

(……)強制された善はそれだけでもう善ではない。かくしてそれは悪にもなる。ところが、唯一の善であるところの自由な善は、悪の自由を前提とする。ここに自由の悲劇がある。(……)
 善は強制せられ得ない。人を善へと強制することはできない。善の自由は悪の自由を前提とする。ところが、悪の自由は自由そのものをほろぼし、それを悪い必然性へと変性させる結果となる。しかし他面、悪の自由を否定し、もっぱら善の自由のみを肯定することもまた、自由の否定となり、自由が善い必然性へと変性する結果を生む。だが、よき必然性とはすでにもう善ではない。なぜなら、善は自由を前提とするものだから。
(中略)
 この真理を証明するのが、ラスコーリニコフやスタヴローギンの、キリーロフやイヴァン・カラマーゾフの運命である。妄想へと駆られた自由が彼らをほろぼしたのだ。しかしこのことは、彼らが強制のもと、外的に規制する法則の独占的支配のもとにおかれるべきであったという意味ではない。彼らの没落はわれわれに光をもたらす。彼らの悲劇は自由への讃歌である。
(中略)
 ドストエフスキーは、驚くべき迫力をもつ弁証法でもって、人間の意識にたいする反逆的合理主義と、人間の生活にたいする反逆的革命主義との宿命的結末を探求する。無限の自由とともにはじまった反逆は、不可避的に、思考における必然性の無限の支配と、生活における無限の圧制とにおもむく。
(……)もしも世界がもっぱら善であり純粋であるならば、神の必要もなく、世界はすでに神となっているであろう。(後略)

(ベルジャーエフ「自由」斎藤栄治訳 『ドストエフスキーの世界観』(白水社、1960)、『文芸読本 ドストエーフスキイ』(河出書房新社、1974)など所収)

2017年5月31日水曜日

引用ノック0935

 第二は、第一の条件とちょうど裏表をなすといえるが、世界視線から遮断された高層ビルの屋内の階(フロア)の内部光景や、アーケード街を映写するとき、かならず閉じられた空間をつくって、そのなかで人物の所作やセット装置の動きや、じっさいの階の実景を映写することだ。いいかえれば地面から上にむかう逆世界視線が、天空まで開かれてしまうのをかならず避けている。
 この世界視線をめぐる像(イメージ)については、すぐにわかるようにひとつの公理が成り立つ。それは世界視線が加担した映像の次元は一次元だけ逓減され、世界視線を遮断した映像は一次元だけ逓増される、ということだ。(後略)

(吉本隆明『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像都市論」 ちくま文庫、2003年 単行本初出:1989年)

2017年1月28日土曜日

引用ノック0914:小吉竹2

        2

 小林秀雄は、芸術と批評の問題に関して最も簡潔に語った批評家だった。彼が言ったのはただ次の三つのことである。
 「作品」はあらゆる批評の原因であるということ。芸術の人間を感動させる力は決して分析し尽くせないということ。そして、批評は結局は自分の夢を語る以外のことができないということ。
 初期の小林の批評を通読すれば、彼がこの三つの考えを繰り返しさまざまなかたちで言い換えていることがわかる。しかし、この簡潔な考えの背後には、幾度も反芻(はんすう)され、練りあげられ、確かめられた。非常に徹底した言語と表現についての理論が封じられているのである。
 たとえばつぎのような考察を見よう。
(後略)

(竹田青嗣『世界という背理』 講談社学術文庫、1996年 |太字部分、原文では傍点)

2017年1月16日月曜日

ヘイトフル具材メモ

『ヘイトフル・エイト』、引かれた補助線を集めるにつけ、かなりの問題作(かつ名作)なのではないかと思うようになった。
関連作品も興味深い。

全部すっ飛ばして結論だけ記すと、ラストは手紙という形をとって、フィクション・本(含む法)・言葉へパスしているというのが、自分の受け取り。
前エントリのバートルビーでも手紙が重要だったりする訳ですが。すべてはつながっているという考えもあり、何でも結び付け始めたら危ないぞ、という意見も説得的であり。
煮え切らないもの、未成のものが悪いとも限らない。

+:
『ミッドナイト・クロス』(と『めまい』)との比較で、本作における手紙の位置づけが浮き彫りになってくる気がしている。
++:
武安国LOVE

2017年1月1日日曜日

2017January: 読&映

2016年12月の読書メーター
読んだ本の数:10冊
読んだページ数:1730ページ
ナイス数:14ナイス
http://bookmeter.com/u/4576/matome?invite_id=4576

■闇金ウシジマくん 33 (ビッグコミックス)
読了日:12月8日 著者:真鍋昌平
http://bookmeter.com/b/4091867901

■闇金ウシジマくん 34 (ビッグコミックス)
読了日:12月8日 著者:真鍋昌平
http://bookmeter.com/b/4091870643

■闇金ウシジマくん 35 (ビッグコミックス)
読了日:12月8日 著者:真鍋昌平
http://bookmeter.com/b/4091873391

■闇金ウシジマくん 36 (ビッグコミックス)
読了日:12月8日 著者:真鍋昌平
http://bookmeter.com/b/4091874754

■戦後詩―ユリシーズの不在 (1965年) (紀伊国屋新書)
詩人格への不満。自身のためのあとがきに、副題”ユリシーズの不在”の意図が書かれている。分野を超える、乱暴かつ開かれた態度。身も蓋もないことが書かれているが、活力重要。語調要慣れ >「詩の中に持ちこまれる状況はつねに『人間を歪めている外界世界』ではあっても、創造者の内たるものではないのだった。」「まだ何ひとつとして終ったわけではない。」(cf. オスカー・ワオ覚醒)
・鮎川信夫と田村隆一の顔の変貌 ・「おやすみ」と「おはよう」 ・話しかけない人間の話ふたつ。
 91草刈り鎌登場 43以降散読 著者若干29歳
読了日:12月10日 著者:寺山修司
http://bookmeter.com/cmt/60871158

■アー・ユー・ハッピー? (角川文庫)
「二十一世紀最初の正月」に走れと言っている。オーストラリアとアメリカ。年を重ねること。
読了日:12月16日 著者:矢沢永吉
http://bookmeter.com/cmt/61005123

■野村ノート
ちょうど三国志で武将がいつの間にか死んでいることを前提に話が語られるように、<先ほどいったようにAタイプの打者は……>とくる。独特のノート感。あとさきは版によって直されているかもしれない。単行本で読んだ。
読了日:12月16日 著者:
http://bookmeter.com/cmt/61005210

■江頭2:50のパニック・イン・エィガ館 (映画秘宝COLLECTION)
◎ 手元に置いておきたい
読了日:12月24日 著者:江頭2:50
http://bookmeter.com/cmt/61158013

■世界という背理―小林秀雄と吉本隆明 (講談社学術文庫)
う、名著
読了日:12月26日 著者:竹田青嗣
http://bookmeter.com/cmt/61210457

■こさめちゃん―小田扉作品集 (KCデラックス (1388))
spring、嘘など
読了日:12月31日 著者:小田扉
http://bookmeter.com/cmt/61323230


▼読書メーター
http://bookmeter.com/

*

2016年12月の鑑賞メーター
観たビデオの数:7本
観た鑑賞時間:1071分

■復活の日 [DVD]
鑑賞日:12月05日 監督:深作欣二
http://video.akahoshitakuya.com/v/B000IU3A18

■巨人の星 コレクターズボックス 青雲編 Vol.1 [DVD]
絵が古い。近くで見ると粗が目立つが、遠目だと骨格はじめ見えてくるものがある。点でSEEDに似ている(これも15年位前の作品)。一徹の顔が聖域だったり色々興味深いが、古いのは事実。あたらしくて良いものは沢山ある。数をこなせない(いまは)。純粋な娯楽としては現代のものの方が優れている。魚とチームワークを語る演出など凄みあり。はらわたのような苦味も慣れればクセになる。俯瞰できるよう、当りハズレ問わず新しいものを微量でも摂取したい。理想は『エクスペンダブルズ2』のパリへの届け物みたいな構図。
鑑賞日:12月17日 監督:
http://video.akahoshitakuya.com/cmt/4516081

■機動戦士ガンダム ZZ 1 [DVD]
マシュマーはDQ。序盤はスロースタートか。期待値をあげないで、少しずつ。
鑑賞日:12月17日 監督:
http://video.akahoshitakuya.com/cmt/4516083

■クルード ~アマゾンの原油流出パニック~ : 松嶋×町山 未公開映画を観るTV [DVD]
鑑賞日:12月17日 監督:ジョー・バリンジャー
http://video.akahoshitakuya.com/v/B004GIIA0E

■ファンキーハットの快男児 [DVD]
裏切り者を単純なザコ悪党として描かない所に深みがある。ラスト痛快。
鑑賞日:12月21日 監督:深作欣二
http://video.akahoshitakuya.com/cmt/4518749

■松竹 寅さんシリーズ 男はつらいよ HDリマスター版 [DVD]
正調迫力真人間 ひろし(前田吟)、喬、蛾次郎、津坂、水鉄砲、帰ってきた男、あざやかなラスト
鑑賞日:12月21日 監督:山田洋次
http://video.akahoshitakuya.com/cmt/4519028

■セーラー服と機関銃 [DVD]
鑑賞日:12月24日 監督:相米慎二
http://video.akahoshitakuya.com/v/B000IU3A1S


▼鑑賞メーター
http://video.akahoshitakuya.com/

2016年12月29日木曜日

引用ノック0910:小吉竹1

あとがき


 小林秀雄と吉本隆明にとって、昭和二十年の「敗戦」はある独特の意味を持っていたように思う。
 吉本にとってそれは、いわば”夢から醒めた”ように、それまで疑えないものとしてあった言葉(理念)の空間から放り出されるような体験であったろう。また小林にとって敗戦は、たとえ過ぎた時代が夢のようなものと感じられようと、自分が見たものは確かに見たのだということを確認するような契機を与えるものだったはずだ。
 (中略)
 言葉が強い魅惑力を持ってわたしたちを捉えているうちは、わたしたちはその言葉が支持する”現実性”を露疑うことができない。なにかわたしたちに見えないある条件が、その言葉の世界の確信を与え続けているからである。ところが、この条件が失なわれると、言葉の現実性(=強度)もまた失速する。そういう事態に彼らは出合い、この言葉の奇妙な背理をもっとも深い問題の核として彼らは生きたのでなかったろうか。
 (後略)

(竹田青嗣『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』 河出書房新社、1988)

2016年11月8日火曜日

鍵盤一打H281107月

七〇二

 大変な一日だった。デザートに二郎(実はまだ食ったことないが)が出てきたような感じだった。
 が、あすは24時間経って、消化しつつあるだろう。
 何事も慣れ。酒も馴れ。胃腸大切に、みなさんまずはご自愛を。

温読書歴099: 漫☆画太郎『地獄甲子園』全三巻 (バージョン違いあり、あとで足す)
……俺は勝手に超傑作だと思っているが、他人がどう思おうと、どうでもいいです。反パウロ的心持。わかりますでしょう。関係ないが、初代ベストプレープロ野球の30試合ペナントで、往時のはかまだが首位打者を獲り、当時のロッテが優勝したことがある。

2016年11月6日日曜日

鍵盤一打H1105土:

七〇〇

 王を祝福する張本をTシャツ柄にするイチローを追いかける川崎。視線は連鎖するわけですか。書籍『マリア様がみてる』を一晩で一気に読んで出社した、というブログのエントリを見て異様にかっこいいと思った記憶が蘇る。(当時既刊分。)妖術使いは何度でも。

 オリックス伊藤光は闇属性という説。唱えた阿呆にアーカイヴする阿呆。それをうっかり目にする阿呆。のちの義兄弟であるが、それはまた別のあたらしい話。図鑑で会いましょう。

 『ニンゲン合格』も『アカルイミライ』も、(片道な)視線の成就しない恋愛映画だったようにも思う。後者はパンフレットにもそんなようなことが書いてある。というかそれの受け売りかもしれない。手元にあるか。部屋を片付ける切欠にできれば。ちな前者、ペキンパー『砂漠の流れ者(ケーブル・ホーグのバラード)』を下敷きにしていた筈。

 生活においては、近くの大型量販店へはじめて行った。思うところ二、三あり。そのうちのひとつを諸考慮外して肝だけ記すと。地域年代の統一されたクラスはまだマシだったか、というような気持(店より大きな単位に対して)。
 また。

温読書歴097: ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」 岩波文庫『チャンドス卿の手紙 他十篇』(檜山哲彦訳)ほか収録
……広義の失語症に関する短篇。知名度の割に重要と思われる。フランシスコ・ベーコン宛とかなんとか。再読してみるか。ちなAmazonその他のレビュー見てたら、読書に対して久々にワクワクしてくる。過去の感想、控えなし。出てきたら足す。

2016年11月3日木曜日

鍵盤一打H281102水:

六九七

 『この世界の片隅に』という映画の前評判がいいらしい。

 体調やや悪。先手うって大病院で見てもらうか。月初め、色々の出費やむなし。

温読書歴094: カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』 伊藤典夫訳 ハヤカワ文庫、1979
……初期の高橋源一郎やブローティガンのスタイルに似ている。あれらを好きなら。率直に言うと、ラストはいかにも西洋の枠組みというか、若干狭いとも思う。もちろん面白いし、定番なので未読なら、スキマ時間にでも読める形式ゆえ。
(相応の理由があり、あらすじその他こまかい説明はオミットするし、してゆく。たとえば、優れた部分や核心ポイントの指摘と、ネタバレはほぼセットなのでね。──自分で気づいてこそ、ってのはシンプルだが重要。学者や職業専門人以外が、小説や言語芸術で攻略本読んだり、詰め込み勉強するのはいかがなものか。自分は記してもいいし記述したいが、知らされた方の失うものにつりあわない。平たくいえばひとの楽しみ奪うのでね。そして、程ほどのラインを探るほどには労力割けないが、そんな乗りでも紹介自体がないよりは、ゼロよりかは良いだろうという、大枠のはなし。)
 ここから話逸して。『さようなら、ギャングたち』の殺し屋は、『日々の泡』(『うたかたの日々』)が元じゃーないかと思う。高橋氏はフランス系と手が合わない筈だが、あれは別格(別枠)なので。それと、おフランス勢の中で、バルザックだけは悪童というか、一線を画している感じはある。彼をすきなひとは結構な小説読みの確率が高いと、肌経由で、かすかに、感じております。特に日本では。