ラベル 思想 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 思想 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年5月3日日曜日

引用ノック1045:

 実際に「いじめ」の事例を考えてみればわかるでしょう。「いじめ」に遭う生徒がそこからどう回復するかという問題は、「いじめ」に遭った場合にどう生き延びるか、という処方箋には終わりません。どれだけ困難であろうと、そこにはじまり、さらに、どうすれば「いじめ」る社会の硬直がほぐれ、「いじめられ」る生徒の心の硬直もまたほぐれる形で、社会と生徒の双方が再生することを通じ、彼と社会の関わり合いをもう一度作れるようになるか、という最終的な課題がそこには含まれています。

(加藤典洋『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011 下』「第三部 中期 孤立と危機」「第11章 村上春樹、底を打つ。」 ちくま学芸文庫、2019年)

2020年4月29日水曜日

日記風メモ

自転車の状態チェックなどをしてもらいに行ってきた。だいたい1か月に一度くらいを推奨されていたのだが。

自転車の利用は災害の時に増えるんですよ、と云っていた。
半屋外みたいな仕事の場所、という条件がある。

(政治に関して、)
堅苦しいフォーマルな議論と、完全に私的でクローズドなおしゃべりの中間、
そういう場所があるといいなと思う。
また、そういう場所にフィットする言葉、話し方(聞き方)、書き方(読み方)が少しずつできていけば、育(はぐく)んでいければ、とも思う。

理念系が先行するものより(あるいはそれと平衡して)、日常の体験や感覚から積み上げられていく政治感覚がさしあたり今のぼくらにフィットするかもしれない。
(狭い界隈しか認識してないかもしれない。また、充分かどうかは別で、フィットするかどうかに限定しての所感だ。)

それはそれとして、部屋の片付けという(おれにとっての)難題がある。

2020年3月11日水曜日

引用ノック1042:

 今日は第一回ですが、「哲学とは何か」──これはこの講座の最終的テーマでもあるわけですが──について、いちおう定義するところからはじめてみます。

哲学とは、「世界がじっさいにどうなっているか」を考えるのではなく、「世界像をつくりだして生きている人間」について考える学問である。それはなんらかの、世界像の危機から起こってくる。

 この「世界像」とは、要するに、世界の「像」です。「世界ってこんなふうになっている」ということを、どんな人でも動物でも、それなりに理解しているわけですが、そうした世界の理解内容のことを、すべて世界像と呼ぶことにしましょう。
 動物の場合はどうでしょうか。たとえば哺乳類を考えてみると、敵か仲間か、という区別があります。そして同類のなかでも、異性か同性か。また場所についても、安全なところと危険なところ、水を飲めるところ。食べられるものと食べられないもの。そういうふうにして、動物も、この世界についてそれなりの「とらえ方」をつくって生きているわけです。
 そうした世界像は、客観的に存在する世界の秩序を「写し取って」いるのではない。そうではなくて、生きていくために世界を「秩序づけて」(分節して)いるわけです。つまり世界像とは、生きていくための世界の秩序づけである、ということができます。
 こうした秩序づけは、動物の場合には、種によってだいたいの枠が決まっていると考えられますが、人間の場合には、文化により、個々人により、きわめて異なった多様な世界像をかたちづくっています。それはなぜかというと、人が言語をもつためだとぼくは考えていますが、しかしこのことは次回にまわして、まずは人間の世界像の基本要素を考えてみましょう。
(中略)
 人間には個人だけの楽しみもありますし、誰もが「ほんもの」をめざしてがんばらなくてはいけない、ということはない。でも、社会のなかに「こういうのがいいよね」といって確かめあうような空気が出てくること、じっさいにさまざまなそういう営みが社会のなかに育っていくことが大切で、もしそうならないとすれば、私たちの社会は、大変しんどい、孤独な社会になっていくと思います。
 私たちの社会はある意味では、いまはじめて、近代が行きつくところまで行きついたともいえる。後発近代のときには、まだ、追いつけ追い越せの目標があたえられていた。それがなくなって、まっさらになってしまった時代がいまですね。
 ここからスタートして、われわれは何を信じられるのか、何がよいことで何が素敵なのかということを確かめあったり、つくりあったりしないといけない、そういう時代にいまなってきてるんだと思います。

(西研『大人のための哲学授業』「第一回 ”世界像の危機”と哲学の役割」 大和書房、2002年)

2019年11月12日火曜日

メモ:法治と自治

タイトルはしっくりこないのだが。

以前、町山智浩氏の番組で、アメリカ合衆国における堕胎手術の是非をテーマにした回があった。
なるほど、と思ったのが、氏による、だいたい次のような解説(たぶんに自分の考えも混ざっていると思う)。

これ(堕胎手術の是非)は、[敷衍すると、]
それぞれの州による自治と、合衆国政府の決めたルールによる統制(法治)という異なった枠組みの対決というふうに、抽象的にひろく受け取る事もできると。

現場現実系と理念系とでも呼べるか。
(元来の語彙力&不知と、メモのメモたるゆえんで、言葉の使い方がルースだが。もっと適切な用語があるかも。)

南北戦争と並べて置いてみると、別のものが取り出せるかもしれない。

話は急に折れ曲がるが、結局なにがいいたいかというと、
町山智浩氏の持っている強い関心の一つにミルトンの『失楽園』(とその周辺のテーマ)があって、それがこの法治と自治というテーマ(あるいはこっちの受け取り方)に、
独特の力を与えているんじゃないか、ということ。 (→秩序と自由 a.k.a. L/C)

「の」で終わる歌詞を思いついたサンボマスター(元400勝投手かどうかの判定は議論を呼ぶ)、たいしたものだと思うが、歌謡曲か、自分の知らない何かの影響かもしれない。

2019年9月16日月曜日

引用ノック1029:

 国民国家がいつか波打ち際に指で書かれた文字のように消えていく存在だと知らされて、そうか、それなら、とそこから考えはじめられるような状況には、わたし達はないのではないだろうか。そう考えはじめるには、それまでにやっておかなければならない侵略国「国民」としての仕事が、わたし達に残っているのではないだろうか。そしてそこからはじめなければ──何度もいうが──わたし達に国民を再定義し、よりひらかれたものにする起点は、築かれないのではないだろうか。いま大人であるわたし達は、すべての戦争は「悪」だろうと考えるにいたっている。しかし、それは、いまやどこにも十歳の子どもなど、いない、という苦い明察と裏腹である。国民国家の消滅を眼で追いながら、しかし手は汚れたまま、これまでのツケを返済しつつ事にあたる、これが起点に「汚れ」をもつ、わたし達の姿勢だろうというのが、わたしの考えなのである。

(加藤典洋『敗戦後論』「敗戦後論」 講談社、1997年 : 「敗戦後論」初出 『群像』95年1月号)

2019年9月12日木曜日

引用ノック1028:

「(前略)ほら、お前だって目がかがやいているじゃないか。詩はもういい。今度はお前に《虫けら》のことを話したいんだよ。神に情欲を授けてもらったやつらのことをな。

  情欲は虫けらに与えられたもの!

 俺はね、この虫けらにほかならないのさ、これは特に俺のことをうたっているんだ。そして、俺たち、カラマーゾフ家の人間はみな同じことさ。天使であるお前の内にも、この虫けらが住みついて、血の中に嵐をまき起すんだよ。これはまさに嵐だ、なぜって情欲は嵐だからな、いや嵐以上だよ! 美ってやつは、こわい、恐ろしいものだ! はっきり定義づけられないから、恐ろしいのだし、定義できないというのも、神さまが謎ばかり出したからだよ。そこでは両極が一つに合し、あらゆる矛盾がいっしょくたに同居しているからな。俺はひどく無教養な人間だけれど、このことはずいぶん考えたもんだ。恐ろしいほどたくさん秘密があるものな! 地上の人間はあまりにも数多くの謎に押しつぶされているんだ。この謎を解けってのは、身体を濡らさずに水から上がれというのと同じだよ。美か! そのうえ、俺が我慢できないのは、高潔な心と高い知性とをそなえた人間がマドンナ(訳注 聖母マリアのこと)の理想から出発しながら、最後はソドム(訳注 古代パレスチナの町。住民の淫乱が極度に達し、天の火で焼かれた)の理想に堕しちまうことなんだ。それよりもっと恐ろしいのは、心にすでにソドムの理想をいだく人間が、マドンナの理想をも否定せず、その理想に心を燃やす、それも本当に、清純な青春時代のように、本当に心を燃やすことだ。いや、人間は広いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。何がどうなんだか、わかりゃしない。そうなんだよ! 理性には恥辱と映るものも、心にはまったくの美と映るんだからな。ソドムに美があるだろうか? 本当を言うと、大多数の人間にとっては、ソドムの中にこそ美が存在しているんだよ──お前はこの秘密を知っていたか、どうだい? こわいのはね、美が単に恐ろしいだけじゃなく、神秘的なものでさえあるってことなんだ。そこでは悪魔が神とたたかい、その戦場がつまり人間の心なのさ。もっとも、人間てのは、痛むところがあると、その話ばかりするもんだ。それじゃ、いよいよ本題に入ろうか」

(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟 上』「第三編 好色な男たち 三 熱烈な心の告白──詩によせて」 原卓也訳 1978年、新潮文庫)

2019年8月1日木曜日

引用ノック1017:

 解剖学者の三木茂夫によると、人間のなかには植物の生と動物の生とがあるという。園人間の身体をなす二重性が、ここにいうゾーエーとしての生とビオスとしての生の二階層構造としての人間──アリストテレスはこれを「政治的な・生き物」と呼ぶ──の基礎である。
 三木によれば、人体の働きは、植物的で不随意的な内臓系と、動物的で随意的な体壁系に分かれる。内臓系は、心臓など血管系、食堂、胃や大腸などの腸管系、腎臓などの腎管系からなり、夜眠っている間も不断に働くことをやめない。体壁系はこれに対し、脳から脊髄(せきずい)にいたる神経系、筋肉系、そして皮膚の外皮系からなり、人間の意思を形成し、意思に従って動き、可感である。むろんこれは人間に限ったことではない。生物体に普遍の構造であり、魚を解剖すると、

 頭部では、この内臓と体壁は堅く嚙み合って分離が難しく、尾部では、内臓が消失して体壁だけとなってくるが、中間の胴部では、この両者は截然(さいぜん/せつぜん)と「腹─背」にその居を分つ。(「南と北の生物学」『海・呼吸・古代形象』一三七頁)

 三木は、「鯉こく」の輪切りを例に取り、この腹と背の分かれ方を説明する。「鰹ぶし」では「まずこの体壁を左右の半身に、次いで各々を背半と腹半の計四枚におろして造る」。(……)こちらでは間をアバラ骨が走っているが、食肉のばあい、この「腹背」の筋肉が「バラ肉とロース肉」になる。
 私たちは古来、この二つの区別を「おなか」と「背」として意識してきた。「背に腹は代えられぬ」とは、この区別の実感を述べたものだ。「思う」という漢字が「田」と「心」からできているのも、このことを指す。この漢字の「上半分(田──引用者)は脳を上から眺めたところ、下半分(心──引用者)は心臓のかたちで、これは“あたま”が“こころ”の声に耳を傾けているところを象(かたど)ったもの とも、語られている。(同前、一二四頁)。
 三木によれば、私たちが心と呼ぶものの出所は、内臓系である。(……)ところで、彼の解剖学的人間論で私たちの関心と響きあうのは、そもそもが西洋の解剖学的見地からも影響を受けたものでありながら、そこでの脳を中心とした体壁系つまりビオスと、内臓系つまりゾーエーに対する評価軸が、これまで見てきた西洋系の考え方を逆転したものとなっている点である。

(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』「12 リスクと贈与とよわい欲望」「ビシャから三木へ」 新潮社、2014年)

2019年7月30日火曜日

引用ノック1011:

でも、一人の人間にとって必須なのは罪の責任を感じることではなく、まず社会とのつながりをもつことです。これをあの「罪の自覚」から考えていく行き方は間違っている、ということです。あの「オレには関係ない」ということに権利があるか、ないか、という違い──僕は権利がある、と言い、彼らは権利がない、と言います──はそこから出てくるのです。
(中略)
赤ちゃんがいます。ある時、彼が、鏡を見るのです。鏡の向こうに変なものが映って動いている。何だろう、と思うんだけれども、ずっとその鏡像を見ているうちに一つの反転が起こる。そこに何かヒトの形をしたものがある。彼は、「あ、これが自分なのか」と思う。「バラバラな身体」としての自己から、空中ブランコのようにして、いわばその鏡像を先取りするように──「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳でいう「ゲーテ」さながら──その鏡像(ギョーテ)に投身してこれを自分として認める、そういうことがそこで起こっているんだ、そうラカンは言うのです。
(中略)
 『銀河鉄道の夜』は、なぜ忘れられないか アルマンとフレデリックの劇という考え方が僕の中に生まれた時、すぐに思い浮かんだのが、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でした。
(中略)
 村瀬さんは、このシーンに着目した。そして、いつから子どもは、自分の友だちが自分の前で川にはまった時、「大変だよ! ××ちゃんが川にはまったよ!」と後ろを向いて大人を呼ぶのではなくて、自分その声を引き受けて、水の中に入り自分で助けようとするのか、という問いを立てた。これが「いつ子どもは少年になるのか」という村瀬さんの問いなのです。
(……)ここにあるのはつまり、アルマンとフレデリックの劇なのです。
(中略)
 僕は宮沢賢治という人のことを考えるんです。宮沢賢治という人はかなりとんでもない人というか、困った人で、世界のすべての人が幸せにならなかったら自分は幸せにならない、なんて阿弥陀様みたいなことを考えている人ですね。純粋フレデリックみたいな、非常に極端な人なんです。アルマンというのは、この逆ですね。ここで、人は自分だけのことを考えて生きていてもいいんだという、もう一つ別の場所を示しています。(……)でも、そういう宮沢の書く『銀河鉄道の夜』が僕たちの心を打つのは、こうした自己犠牲の心の美しさのせいじゃありません。この作品はそういうもので僕たちに働きかけてくる作品じゃないのです。
 ここにはどういう力学が働いているんだろうか。
 この川の場面に出てくるカムパネルラのお父さんの博士の造型が、ここで一つのヒントになるでしょう。博士がどんなふうに描かれているか。みんなは、どこかからカムパネルラが「ぼくずいぶん泳いだぞ」と言って出てくるんじゃないかと思って待っている。するとポツンと、博士が言います。「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」(中略)
自分の子どもがいま川に溺れて、生き返ってくるか、こないか、という時なんです。そういう時でも、この博士は、「堅く時計を握」り、自分のそういういてもたってもおられない気持を抑えながら、でも、「あなたのお父さんはどうしました? 明日遊びに来てくださいね」とジョバンニに平常心で言うのです。ここにいるのは、極度に自己を抑制できる、抑制してしまう、あの宮沢賢治の一面を髣髴(ほうふつ)とさせる超フレデリックのような人ではないでしょうか。
(中略)
ここで、もう一度あの宮沢賢治のことを思い返してみましょう。宮沢賢治にとって童話とは何だったでしょうか。この人はたしかに、この世の責任を全部自分が引き受けなきゃいけないというようなことを誰よりも強く思っていた人です。(……)
 彼の素晴らしいところは、彼自身はそういう人間でありながら、自分の中にある、このフレデリックとアルマンの、その二つの像の間の劇というものに目を注いだことです。一方は、人のために死んでもいい。一方は、自分のために生きていてもいい。でも、彼はこの劇をどのようにして取り出しているか。この童話の主人公は、やっぱりジョバンニなんです。他人のことを考えたい。でも、お母さんに牛乳を飲ませなくてはならないし、お父さんはいない。自分のことだけで精一杯だ。そういう形でジョバンニを自分の中から取り出せた時、宮沢からこの希有な傑作が生みだされました。
 この最後のシーンは、そういう意味で何度読んでも心に残ります。そこでは、自分の子どもがいなくなってしまった博士と、自分のお父さんがいないジョバンニが、ちょうどはすかいの関係で向かい合っています。(後略)

(加藤典洋『戦後を戦後以後、考える ノン・モラルからの出発とは何か──』 岩波ブックレット 1998年)

2019年7月17日水曜日

引用ノック1009:

その違いを押さえた上で、この鵜飼さんの指摘を見ると、面白いのです。鵜飼さんの言うように、この「彼女は彼に誕生を与えた」(She gave birth to him.)という言い方では、この生を与えられるというのは、まだ存在していません。つまり、というのは未成の人間だとでも考えるより仕方がない。

(加藤典洋『戦後を戦後以後、考える──ノン・モラルからの出発とは何か』 岩波ブックレット 1998年 )

2019年6月16日日曜日

引用ノック1007:

〔……〕ヤスパースは、(核をもつ)ソ連の全体主義を打破するためには、核の使用は許容されうるばあいがある、といっているのです。
 ヤスパースの主張と、「日本のわれわれ」の「心情と論理」とのこの大きな違いについて、日本のヤスパース研究者の方々がどれくらい、立ち止まり、検討を加えられているのかを、私は寡聞にして、知りません。しかし、いま、私たちがヤスパースについて考えるなら、この点の考究は避けて通れないところです。なぜ、このような違いが生まれるのか。(……)私のばあい、これを問い、とりあえずたどりついた彼我の分岐点が、日本の戦争体験のたまたま「生き残った」という原点とヤスパースの「生への決意性」という戦後の起点の違いだったということです。
(中略)
 (……)同じく、道徳上の罪は、主に自分の良心との関係から生じます。というか、それとの相互性のうちにささえられています。例を出せば、そのため、たとえば、殺人を犯した『罪と罰』のラスコーリニコフは、自分の老婆殺しはけっして「罪」ではないと自分の「良心」に照らして確信し、殺害を決行するのですが、母からの手紙を読み、肉親に接するうち、自分がもはや、以前のように彼らとのんびり、くつろいで話すということは永遠にできない、という直覚に襲われて、慄然とします。そして、苦しくなる。その果てに、その確信の崩壊に直面せざるをえなくなるのです。
 これに対し、形而上的な罪は、人間の関係が「きわめて緊密な人間的結合」を見せるばあいに、生じる、といわれています。では、ここにいう、人間としての連帯性(the solidarity of all men)、公民(fellow-citizens)としての連帯性、より狭いグループ(smaller groups)と異なる、「緊密な人間的結合(the closest human ties)」に基づく連帯性とは、何なのでしょうか。それを私は、あるできごとのなかでたまたま生じる絶対的な関係性から生まれる連帯性、つまりたまたま「居合わせる」という、偶然が作り出す絶対的な連帯性──偶有的であるために絶対的でもある人間間のつながり──と定義してみたいのです。

(加藤典洋『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』「戦争体験と「破れ目」」 幻戯書房、2017年)

2018年8月22日水曜日

引用ノック0970:

これらの経験はこの空想的な老学者に次のようなことを考えさせた。いったい野球その他のスポーツがどうしてこれほどまでに人の心を捕えるのであろうか。
野球もやはりヒットの遊戯の一つである。射的でも玉突きでも同様に二つの物体の描く四次元の「世界線」が互いに切り合うか切り合わぬかが主要な問題である。射的では的が三次元的空間に静止しているが野球では的が動いているだけに事がらが複雑である。糊べらで飛んでいる蠅をはたき落とす芸術とこの点では共通である。
近ごろボルンが新しい統計学的基礎を論じた中に、ウィルヘルム・テルがむすこの頭上のりんごを射落とす話を引き合いにだした。昔の物理学者らが一名を電子と称するテルの矢のねらいは熟練と注意とによって無限に精確になりうると考えたに反して、新しい物理学者は到底越え難いある「不確定」の限界を認容することになった。いわば昔はただ主観の不確定性だけを認めて客観の絶対確定性を信じていたのが今では不確定性を客観的実在の世界へ転籍させた。この考えの根本的な変遷はいわゆる「因果律」の概念にもまた根本的の変化を要求する。しかしそれは単に原子電子の世界に関することばかりでなく、これらの原子電子から構成されている全ての世界における因果関係に対する考え方の立て直しを啓示するように見える。

いかに現在の計画を精鋭にゆきわたらせることができたとしても、過去と未来には末広がりに朦朧たる不明の笹縁(ささべり)がつきまとってくる。(……)
こういう漠然たる空想をどこまでもたどりたどって行った末に、彼は、確定と偶然との相争うヒットの遊戯が何ゆえに人間の心をこれほどまでに強く引きつけるかという理由をおぼろげながら感得することができるような気がした。(……)

(寺田寅彦「野球時代」)


『打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に』の結句『人の手の中に』はベースボール技術を写生したのであつた。『今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな』は、ベースといふ字をそのまま使つてをり、漫基(フルベース)の状態を歌つたもので、人をはらはらさせる状態を歌つてゐる。一小和歌といへども、ベースボールの歴史を顧れば感慨無量のものとなる。

(斎藤茂吉「子規と野球」)

(平出隆編『日本の名随筆 別館73 野球』 1997年、作品社)

2018年3月15日木曜日

引用ノック0963:

「…MITの哲学助教授 ブラッド・スコウは 時間は流れず むしろ止まっていると述べた。」
「映画のフィルム 一コマ一コマがチューブの様につながっていると想像して欲しい。」
「過去、現在、未来は固定され全て同じ時空に存在しているのだ。」

(とよ田みのる『金剛寺さんは面倒臭い』1巻 小学館、2018.3)

2018年2月15日木曜日

引用ノック0957:TM

私は「ふふ」っと残忍な笑いをもらしながら、「[……]君は、自分に与えられた天の使命を知ってる?」と言うと、座っていたロボットくんの座高が十センチくらい低くなった。
「それって、誰が言ってるんですか?」と言うので、「孔子だよ」と言うと、彼は「先生は天の使命を知ったんですか?」と突っ込んで来た。私は、「もちろん」と言って、「でももう五十年近く前のことだから忘れてしまった」と言って、更に、「知って忘れてしまうのと、初めっから知らないままでいるんとじゃ、実質が違うからね。人としての実質が」と追い討ちをかけてやった。可哀想な彼は「うーん」と考え込んでいたが、いい加減な年寄りの言うことなんか信じるんじゃねェよ。年寄りが年寄りの話を始めたら、もう若い奴はついてけねェんだから。
「私はまだ百歳ではないけれど、別に百歳だからおめでたいという公式見解はないんだぜ」と言って、私は、九十九歳なら「後一歩で百」だから白寿というが、百歳を祝う言葉はないと教えてやった。
(中略)
 ほとんど『バイオレンスジャック』じゃないかと言うと、ガンダム系のロボットくんは、『バイオレンスジャック』ってなんですかと言った。
(後略)

(橋本治『九十八歳になった私』 講談社、2018.1 )

2018年1月29日月曜日

引用ノック0956:集団的な利己心

(……)文明は、ある程度の勢力と複雑さとを具えるようになると、発展を中止する。もはや発展の余地がなくなるやいなや、急速に衰えずにはいないのである。やがて老朽期がおとずれるであろう。
 この避けがたい老朽期の前兆は、常に、種族の精神の支柱となっていた理想の衰微ということである。この理想が弱まるにつれて、これに活気づけられていた宗教上、政治上、社会上のあらゆる組織がゆるぎはじめる。
 理想が次第に消滅するにつれて、種族は、その団結と統一と勢力との源泉となっていたものをますます失って行く。個人の人格と知能は、高まるかも知れないが、同時に、種族としての集団的な利己心は、極度に発展した個人的な利己心にとってかわられて、気力の減退と行動能力の低下とが、それに伴うのである。(……)かつては一つの民族、一つの統一体、一つの全体を形づくっていたものが、遂には団結力のない個人の寄り合いと化してしまう。もっとも、この寄り合いは、伝統や制度によって、人為的になおしばらくのあいだは維持されはする。そのとき、人々は、それぞれの利害関係と願望とに応じて、たがいに分裂し、もはや自治の能力を失って、ごく些少な行為までも指導されることを求め、そして、国家が、吸収的な力をふるうのである。
 旧来の理想を遂に失うと、種族は、その精神をも失ってしまうのである。(……)それでもなお、文明は、はなばなしく見えることがあるかも知れない。それは、永い過去によって創造された外観を保っているからである。(中略)
 一つの夢を追求しながら、野蛮状態から文明状態へ進み、ついで、この夢が効力を失うやいなや、衰えて死滅する。これが、民族の生活が周期的にたどる過程なのである。

(ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』 櫻井成夫訳 講談社学術文庫、1993年: 1895, ”La psychologie des foules” by Gustave Le Bon)

2018年1月4日木曜日

鶴見メモ→該当書籍借りる

2017年12月21日木曜日

引用ノック0955:

「これはちがう、ちがう! だめだ。これはまるでちがう!」

(ドストエフスキー『悪霊(下)』 江川卓訳 新潮文庫、1971年 :発言者:リャムシン)

2017年9月17日日曜日

引用ノック0943:

(……)強制された善はそれだけでもう善ではない。かくしてそれは悪にもなる。ところが、唯一の善であるところの自由な善は、悪の自由を前提とする。ここに自由の悲劇がある。(……)
 善は強制せられ得ない。人を善へと強制することはできない。善の自由は悪の自由を前提とする。ところが、悪の自由は自由そのものをほろぼし、それを悪い必然性へと変性させる結果となる。しかし他面、悪の自由を否定し、もっぱら善の自由のみを肯定することもまた、自由の否定となり、自由が善い必然性へと変性する結果を生む。だが、よき必然性とはすでにもう善ではない。なぜなら、善は自由を前提とするものだから。
(中略)
 この真理を証明するのが、ラスコーリニコフやスタヴローギンの、キリーロフやイヴァン・カラマーゾフの運命である。妄想へと駆られた自由が彼らをほろぼしたのだ。しかしこのことは、彼らが強制のもと、外的に規制する法則の独占的支配のもとにおかれるべきであったという意味ではない。彼らの没落はわれわれに光をもたらす。彼らの悲劇は自由への讃歌である。
(中略)
 ドストエフスキーは、驚くべき迫力をもつ弁証法でもって、人間の意識にたいする反逆的合理主義と、人間の生活にたいする反逆的革命主義との宿命的結末を探求する。無限の自由とともにはじまった反逆は、不可避的に、思考における必然性の無限の支配と、生活における無限の圧制とにおもむく。
(……)もしも世界がもっぱら善であり純粋であるならば、神の必要もなく、世界はすでに神となっているであろう。(後略)

(ベルジャーエフ「自由」斎藤栄治訳 『ドストエフスキーの世界観』(白水社、1960)、『文芸読本 ドストエーフスキイ』(河出書房新社、1974)など所収)

2017年7月30日日曜日

引用ノック0938:

フィチノの影響を受けた一団の人々のなかで最もよく知られているのは、ピコ・デラ・ミランドラ(一四六三―九四)であるが、われわれにとって重要なのは、これらの人々の学説の内容が何であったかということよりも、学説の基礎にある精神が時代の機運に照していかなる意義をもったかという点である。すなわち、新興のプラトン主義は単にプラトンやプロティノス、あるいはヤンブリコスやブロクロスへの復帰だけを意図したものでなく、同時のその哲学的立場からヨハネ、パウロ、アウグスチヌスなどの思想を新たに解釈し直し、一般的にいえばキリスト教と哲学との新しい関連を打立てようとするもであり、アリストテレス哲学に無批判的に追随するかぎりキリスト教の真髄は解明できない、という洞察を主要な思想動機とするものであった。(中略)
 再興されたプラトン主義はその基調において神秘主義的であった。(後略)

(永井博『ライプニッツ [思想学説全書]』「第一章 思想史的背景」 勁草書房、1958年)

2017年5月31日水曜日

引用ノック0935

 第二は、第一の条件とちょうど裏表をなすといえるが、世界視線から遮断された高層ビルの屋内の階(フロア)の内部光景や、アーケード街を映写するとき、かならず閉じられた空間をつくって、そのなかで人物の所作やセット装置の動きや、じっさいの階の実景を映写することだ。いいかえれば地面から上にむかう逆世界視線が、天空まで開かれてしまうのをかならず避けている。
 この世界視線をめぐる像(イメージ)については、すぐにわかるようにひとつの公理が成り立つ。それは世界視線が加担した映像の次元は一次元だけ逓減され、世界視線を遮断した映像は一次元だけ逓増される、ということだ。(後略)

(吉本隆明『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像都市論」 ちくま文庫、2003年 単行本初出:1989年)

2017年2月28日火曜日

引用ノック0922:

 それは、つねに、何らかの具体的状況が当人に課する問題にはじまり、具体的状況の中でその問題の解決に終る。その解決そのものが仮説であり、それは探求の出発点となる。もとの状況からどのように問題をきりとるか、問題をたてることとその問題を解くこととが、もとの状況といかにかかわるか。それは、普通には、論理学においてとりあげられない。しかし、この側面こそ、デューイが、全力をあげてとりくんだところであり、デューイの論理学の特色はここにある。(中略)
 一つの判断が真であるか、偽であるかということは、その判断にとって根本的なものではない。真の判断というような言い方を、デューイは、保証された判断という言い方におきかえる。(……)
 このようなとらえ方は、あくまでもデューイの土俵にたって、具体的状況の中での人間の探求を事実として特長づける時には、なりたつ。しかし、論理の操作を別の見方で見ることは可能であり、別の見方があり得るということを、デューイが十分に理解したかどうかはうたがわしい。
(中略)
 このように、命題を記号相互の関係において、記号と対象の関係において、記号の使用される場において、という三つのレヴェルで考察することができる。このようにして、プラグマティズムの思考分析を、[……]一つの体系に統合しようとするチャールズ・モリスの考え方に、デューイは承服しなかった。

(鶴見俊輔『デューイ』 講談社、1984年)