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Kocoromi or Cokoromi
Kocoromi or Cokoromi
頭部では、この内臓と体壁は堅く嚙み合って分離が難しく、尾部では、内臓が消失して体壁だけとなってくるが、中間の胴部では、この両者は截然(さいぜん/せつぜん)と「腹─背」にその居を分つ。(「南と北の生物学」『海・呼吸・古代形象』一三七頁)
「答えのかわりに、一つ質問をしていいですか?」
今度は、医師のほうがほほえんだ──
「謎がお好きですね」と、彼はいった。「まあ、参りましょう」
「僕はもう観念のために死ぬ連中にはうんざりしているんです。僕はヒロイズムというものを信用していません。僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです。僕が心をひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです」
リウーは新聞記者の言葉を熱心に傾聴していた。そしてじっと相手を見つめていた目を放さず、彼はやさしくこういった──
「人間は観念じゃないですよ、ランベール君」
相手は、激情に顔を燃え上らせて、寝台からとび降りた。
「なるほど」と、タルーはうなずいた。「いわれる意味はわかります。しかし、あなたの勝利は常に一時的なものですね。ただそれだけですよ」
リウーは暗い気持ちになったようであった。
「常にね、それは知っています。それだからって、戦いをやめる理由にはなりません」
「確かに、理由にはなりません。しかし、そうなると僕は考えてみたくなるんですがね、このペストがあなたにとって果してどういうものになるか」
「ええ、そうです」と、リウーはいった。「際限なく続く敗北です」
”リウーが気づいたのは、グランがコタールのことをいうとき、いつも「絶望に駆られたあの人」ということであった。”(新潮文庫 改版 49頁: 宮崎嶺雄訳)
しかし、この記録たるや、かまえて些末時ばかりをとりあげる方針に従ったと思われる、きわめて特殊な記録である。
まー↑の引っ張り方じたいが安易といわれればそこまでで、怠惰をスポンジで吸収したような男を自認しつつ伏し目がちに行くしかない訳です。何も考えないでここのコンビニにひょいって寄ったときに、自分の欲しいものがとりあえず手に入るみたいなことが、実を言うと人間の努力を、努力するということをそぎ落としているって感じがします。— 富野由悠季bot (@tominobot) 2017年3月28日
われは新しき世界を、新しき生の空間を見たりされどそは、より大いなる知識、崇敬のためならずすさまじき強欲わが歩みを囲繞[いじょう]し、執念深き誇りわが両眼を満たし、しかりわが両眼を狂おしく照らせり。汝殺人者の血よ、汝は幾先年にわたる涙をもってしても洗いおとされることはなかろう! …ゴルゴダの十字架は鉄と変わり、わが英雄の剣は死の十字架に、しかりわれらの生命のために神が降し給うた十字架は鉄と変われり。汝は人々の生命を枯らして非人間的、かたくななものとなし、帝国を起こして東国を征服せり、されど神は怒り給いて……すべては空し……[第二十三景]
古(いにしえ)のビスカヤ人の粗野な性格、
げにそこから、
発見されしあらゆる国々に
気高さが広がれり。
最近はなんでもクソ映画で語ることができるんじゃないかという気がするくらい、データベースが充実してきたな!— Kiichiro Yanashita (@kiichiro) 2016年4月4日
どうあがいても わだちは見えぬ、
道踏み迷うたぞ なんとしょう?
悪霊めに憑かれて 荒野のなかを、
堂々めぐりする羽目か。
…………………………………
あまたの悪霊めは どこへといそぐ、
なんとて悲しく歌うたう?
かまどの神の葬いか、
それとも魔女の嫁入りか?
A・プーシキン
そこなる山べに、おびただしき豚の群れ、飼われありしかば、悪霊ども、そこの豚に入ることを許せと願えり。イエス許したもう。悪霊ども、人より出でて豚に入りたれば、その群れ、崖より湖に駆けくだりて溺る。牧者ども、起りしことを見るや、逃げ行きて町にも村にも告げたり。人びと、起りしことを見んとて、出でてイエスのもとに来たり、悪霊の離れし人の、衣服をつけ、心もたしかにて、イエスの足もとに坐しおるを見て懼れあえり。悪霊に憑かれたる人の癒えしさまを見し者、これらを彼らに告げたり。
ルカ福音書、第八章三二─三六節