2020年3月11日水曜日

引用ノック1042:

 今日は第一回ですが、「哲学とは何か」──これはこの講座の最終的テーマでもあるわけですが──について、いちおう定義するところからはじめてみます。

哲学とは、「世界がじっさいにどうなっているか」を考えるのではなく、「世界像をつくりだして生きている人間」について考える学問である。それはなんらかの、世界像の危機から起こってくる。

 この「世界像」とは、要するに、世界の「像」です。「世界ってこんなふうになっている」ということを、どんな人でも動物でも、それなりに理解しているわけですが、そうした世界の理解内容のことを、すべて世界像と呼ぶことにしましょう。
 動物の場合はどうでしょうか。たとえば哺乳類を考えてみると、敵か仲間か、という区別があります。そして同類のなかでも、異性か同性か。また場所についても、安全なところと危険なところ、水を飲めるところ。食べられるものと食べられないもの。そういうふうにして、動物も、この世界についてそれなりの「とらえ方」をつくって生きているわけです。
 そうした世界像は、客観的に存在する世界の秩序を「写し取って」いるのではない。そうではなくて、生きていくために世界を「秩序づけて」(分節して)いるわけです。つまり世界像とは、生きていくための世界の秩序づけである、ということができます。
 こうした秩序づけは、動物の場合には、種によってだいたいの枠が決まっていると考えられますが、人間の場合には、文化により、個々人により、きわめて異なった多様な世界像をかたちづくっています。それはなぜかというと、人が言語をもつためだとぼくは考えていますが、しかしこのことは次回にまわして、まずは人間の世界像の基本要素を考えてみましょう。
(中略)
 人間には個人だけの楽しみもありますし、誰もが「ほんもの」をめざしてがんばらなくてはいけない、ということはない。でも、社会のなかに「こういうのがいいよね」といって確かめあうような空気が出てくること、じっさいにさまざまなそういう営みが社会のなかに育っていくことが大切で、もしそうならないとすれば、私たちの社会は、大変しんどい、孤独な社会になっていくと思います。
 私たちの社会はある意味では、いまはじめて、近代が行きつくところまで行きついたともいえる。後発近代のときには、まだ、追いつけ追い越せの目標があたえられていた。それがなくなって、まっさらになってしまった時代がいまですね。
 ここからスタートして、われわれは何を信じられるのか、何がよいことで何が素敵なのかということを確かめあったり、つくりあったりしないといけない、そういう時代にいまなってきてるんだと思います。

(西研『大人のための哲学授業』「第一回 ”世界像の危機”と哲学の役割」 大和書房、2002年)

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