2014年3月6日木曜日

(無)宗教について思ったところ一筆書き(日記)(未)

 いまの日本人が、無宗教──というのでは充分に言い当てられない、おそらくは摩訶不思議と外国人からは感得されるであろう思考様式──という特異性とそれに基づく優位性を発揮して、世界に流布している各種宗教に対し門外漢(この表現も不正確)ゆえの優れた見識を保持していると感じることは多い。
 イエス、シッダールタ、ムハンマドを軽妙に論じたり。




 だが。
 だがですよ。
 このメンタリティにおける異端性、恐らくは日本人の泣き所でもあり、この無自覚な特殊さに拠って生じる日本人の精神における惨めさ、救われない魂はあると思うんですよ。

 突き詰めて考えない。あるいは考えても、その成果は言語の世界と隔絶しており、「わかるひとだけわかればいい」というような世界に集約されていく。
 嫌なとこ沢山あるんだろうけど、ヨーロッパ(主に西欧か)の思想や文化において、差別主義的にみえてその真逆と思わせてくれるのは、人生(含む学問)で得た経験の精髄を(入り口は狭くとも)丹念にくらいついて読んでいけば誰にでもわかるような形でテキスト化して共有しよう、という拓かれた部分だ。
 それは幻かもしれないし、攻撃性と対になっているのかもしれないが。

 とにかく、日本人、特に知識人において、探求の末に言語化不能な領域へ活動の核となる場所を移し、結果、異貌でカリスマ性あるけれどもよくわからない人になってしまう、というのは典型的なパターン(型)の上に、問題だと思う。

 というわけで、日本においては既に旧弊な岩波系知識人(特に六十前後の世代)の寿命が尽きていると自分が考える。
 今までありがたく頂いてきた欧米の言説も、その偏りとうしろめたさの存在が実感として、自分のように消極的に情報を受け取るタイプの、非エリートに属する人間にもやってくるようになった。(アホである。)

 上のパラグラフの内容は仮説である。
 だから、時間をかけた検証のうえ、先人達がしてきたように、本人たちにわかる形で──ここが至難だが彼らの枠組に則りそれを継承する形で──引導を渡すなり、或いは「まだまだぬるいわ!」と一括されて屈辱に震えることが必要とされていると考える。
 でなければ、ネットスラングであるところの「経験のリセット」は不可避。と考える。
 乗り越えの道でも融和の道でもいいけど、意見の相違を前提にした論争ができないのはただ単に田舎者なんじゃないですかね。てめえが田舎者であることに箔をつけて誤魔化せると思うなよ。もちろん、住んでる地域とかの問題ではないよ。

 お上品にやってたら、お人よしなひとから先に順に粛々と社会から退場していく破目になる気がして仕方ないよ。
 誰と喧嘩するにしても最低限のルールはあるだろうし、数手先読んで落とし所も見当つけりゃ尚いいんだろうけど、なんでてめーらみたいな情報に疎く関心の領域も狭い、気力の衰えた人間のケアをしなきゃなんないの、とは思うけどさ。(これも年令は大きな要素じゃない。)
 下の世代や、割を食っているにも拘らず良心的だと思われる層がいる以上、孤絶してようがほぼほぼ人生詰みかな? みたいな状態からでもやれることをとりあえずやるしかないだろう。

 鼻息荒く書いたけど、八割はぶち切れた末の感情の発露(≒ガス抜き)だよそりゃ。
 ガス抜きが単なるガス抜きに終わるかどうかは現時点では構造的に同定できず、しばらくは確定しない模様。

 あれ、俺は宗教について語ってたはずだけどな!?

 ぶっちゃけロードマップなんてないよ。
 俺もお前も俺たちも。

(あとで修正→しない。)

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