表題の評論、大意は
「九十九匹は政治で救えるけど、残りの一匹は救えない。けど、九十九匹を救う政治がまずちゃんとしていないから粛々とやっていこうぜ」見たいな感じだと記憶していた。(1)
いずれにせよ、”九十九”の部分へ注力できるよう状況を整えない──てエラソーだけど、むろん無力感(AS ミジンコ)につつまれてますよ──と、残り”一”に頓着したい人たちも──おもに経済由来で──疲弊してつらいことになるだろう。で、残り”一”についてあれこれお喋りしつつも、疲弊に絶えうるだけの基盤を持ってるお歴々が生き残る。という展開が待っているのかな。やれん。
てか、「政治を叩いてりゃいい」という構図が、既存マスメディア勢とじつに美しくないかたちの連合をしている気がするよ。
「行政や立法でこういうことやりますー、マイナス要素はこれでプラス要素はこれ、背景はこうこう・・・」っていう周知徹底のコストがアホ高くなきゃ、案外やってくれるんじゃないの? って期待や信頼もまだできる気もするんだけどどうかな。性善説すぎるかな?
兎に角、なんでも反対! みたいなやり方の不味さと迷惑っぷりに思いを馳せますよ。
そうはいっても、”九十九”の粛々部分に、並の人(含僕)ではなかなかアクセスしづらいよなあ、心理的にも物理的&作業量的にも。
苦手意識の問題なのかもしれないけど。
サッと結論だけ簡潔に呈示できりゃいいけど、別に商品でもないので、書きつつ考えを纏めて行きたい所存。です。
(1)
が、ネットで二、三の感想など見る限り、どうも残りの「一匹」の方に力点が置かれているようでもある。ので再読する。「政治と文学」のアンソロジー(たしか河出)で読んだはずだけど、坪内祐三氏が編んだ『日本近代文学評論選』がおもしろそう。福田恆存もそうだけど、正直保守と右翼の違いがわからないし、粟粒の解釈なら知らない方がいいと思ってる節もある。
ほか
(後追いの難しい書き方をしている。自覚と理由ある。)
(とくに後半部、あるひとからの影響大なんだけど、氏の自説で「自分からの受け売りをそのまま自説として流してもOK」(大意)てのがあるので、出所は明記しない。が、今後の進み行き次第で、迷惑がかからないようであれば、というか本人の意向が明記してくれーということなら明記する所存。)
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