2020年8月4日火曜日

小雑感 BLM

ブラック・ライブズ・マター。
Black Lives Matterのことは、気になっている。
皆さんどうですか。

現状を把握していないので、なかなか言及をしづらいところがあった。

基本の理念は、疑うべくもなく正しいと思う。
利害の関係の渦中へ飛び込んでいくわけで、賛同を示すにはこの運動について知る必要があるですな。

知らないまま発言というのは普通ないけれど、居酒屋の雑談や床屋トークくらいに言及するハードルの低さも悪くない、と思った。

もうひとつは、海外の話だが翻って日本にも似た問題がないかな、と思う。

思い詰めて人がダウンしてしまうようなやり方を避けることがもしできれば、と思う。
渦中にいると至難ですが、言葉にせずともみな抱えている葛藤のように思う。

自分の場合は並行して日本の問題も考えたいが、継承しつつ、吊し上げやなんかとは違うやり方の発明が必要じゃないかと思ってる。

天気いいですな。
差し当たり、こちらからは以上です。

2020年7月7日火曜日

銃後の感覚と板挟みの思想

昨日は退嬰的に過ごした。

九州の水害が気になるが、後で調べる。
今日も雨だという。(九州から見て、東京は冷たく感じるだろうか。)

選挙についても、日々のことについても、ほんとうは自分が何を考えていたかを、記しておくべきだろう。
ブログと紙の二筋で残したいなんて思うけど。(心の利根川さんに黙祷する日は来るのか。)


起きたあと、ばらばらの意識が少しずつまとまって行く感覚、みなさんあるでしょう。

このブログは鏡を割った鳩、あるいは初期ポーリーみたいに始まります。

社会を人格化して捉えることは、人格化の意識があるかぎり、限定的に有用と思う。

銃後と最前線が、対になる言葉か。
銃後と司令室(社長室)かもしれない。

ともあれ、自分が最前線その他の場所で戦っていないという、銃後の感覚について考えてみたい。

八崎真悟(やつざき・しんご)という漫画のキャラクターがいたが、いい名前だと思う。

「ご覧。薄(すすき)の穂を渡る奴があるよ」という台詞がたしか『行人』にあった。

資本の投入(広い意味では資本主義になるか)が効果を発揮する条件として、一つに空間的なズレ、もう一つに時間的なズレがある、と指摘した文章をかなり前に読んだ。
書いてあった中身はだいたい忘れたが、一つ目が空間的な技術の違い(国や地域によっておもに生産技術の進み具合、発展の仕方が違うこと)だった筈。これはわかりやすい。

もう一つの時間的なズレが、どんな内容だったか。
単なる先行者利益とも違う感じだったと思う。
時間で追っていくと、同じ場所(国・地域)でも生産や流通その他の技術の進歩の度合(方向も含んでいたか)が違うから、その差分が利潤を産むとかそんな感じだったか。

とまれ、かなり話が逸れた。
本題は銃後の感覚と板挟みについてだった。

冗舌を促進しない点に目をつけて、原稿用紙や手書きに逆張りする人が出てきてもいいんじゃないか。

銃後の感覚というのはさしあたり、自分が最前線でことに当たっていないというだろう。
だから今の九州の水害についても、銃後の感覚とは少しズレるが気がかりというか、後ろめたさというかそんな感じを持っている人もいるだろう。

そういう気持は、普通は声高に叫ばれないものだし、叫ばれた時点で台なしになってしまう性質、部分があると思う。

疲れてきた。

後で書き足すかもしれないが、梗概未満の形でもいいから、書きたかったことを記してみる。

銃後感覚で前線に後ろめたさを持つ。
あるいは前線感覚で銃後を撃つ。
両面受けといいますか。
この二つの、挟み撃ちに合うような考え方というのがあるんじゃないか。

特に非フィクションの文章(ノン・フィクションとは違います)が正論で強すぎたり、逆に反省して弱すぎたりすることと、形として関係するように思うが果たしてどうか。

半フィクション化とは別の方向で脈がある気がする。

たとえば将来、自分たちの先に存在するであろう世代について。(いったん血縁を横においてもいい。)

「可能的には」、いま現在の世の中に住む自分たちから見て、そいつらは銃後になりうる。
(大なり小なり、しわ寄せを喰らわせる自由もある。その場合は広義には、自分たちが遡って銃後だったということにもなる。)

仮に、ずいぶん先まで欲張って想定して、将来世代がよく生きられる環境と社会条件を整備できたとするじゃないですか。
もしうまくいった場合、将来の世代に、「お前ら銃後じゃないか」と、社会的にも個人的にも思うようなら、どこか間違っているんじゃないか。

時間的には、仮定される将来世代からは自分たちが銃後。
前の世代から見ると、今の世代が銃後。
各々不満や言いたいことがあるだろうけど、大まかには。

同じ時代でも、熾烈な状況の場所・人とそうでないと場所・人がある。
このことを、安易な糾弾でなく丹念に考えていくセオリーが、少なくとも日本では未だ、確立途上に思う。

それはそれとして、むろん、もうちょっとどうにかならないか、と感ずる部分もある。

差別の問題や歴史の問題でも、この板挟みな感じ方、それに基づく語り方は少しずつ生まれてきているように思える。

今までもあったのだろうが、自分の観察範囲で目につくようになってきた。

自分はひとりで生きているわけではないので、長い目で見たり見られたり、という感覚が少しにせよあることを、ラッキーだと思う。

自分が記してみれば分かるけど、その人のすべての要素が会話にせよ文章にせよ日常生活にせよ、あらわれることはまずないですね。

紙の日記や文章も残したい。
なんにせよ、雑多に記したので、後で削ったり足したり、修正するかもしれない。

至難ですが。みなさん元気で。
ヤケをなるべく起こさず行きたいものですな。

2020年7月4日土曜日

都知事選 前日 その6(2020.7.4)

(つづき)

前にした署名のことは頭にあったが、自分はそこで期日前投票をした。

投票棄権(や白票)を呼びかける署名をしながら、自分は投票をした訳で、この二つの行動には一貫性がない。


今振り返ると、自分の行為が外からどう見えるかということ、自分の中の一貫性、この二つの点で考えが甘かったと思う。

当時の自分がどんな考えを持っていたか、正確に復元はできない。
そのときの行動の契機やその内実は、こんな感じだったと思う。

区役所内に投票を促す配置があって、かつそれが押し付けがましくもないふうに思えた。
その仕掛けに、シンプルに心を動かされたということが、一つあった。

この選挙に抗議する意味で投票しないのだという、強い信念や一貫性への誠実さを自分が持っていたら、そこで投票していなかっただろう。

いい加減な署名を自分はしたことになる。
短期間で考えが変わっていることは、動かない。

ただ、署名の時点で出し抜いて投票してやろうとは思っていなかった。
そこにダウトをかけられても仕方ないと思う。同時に、ダウトをかけるならかける方も、それが空振りだった時には、相応の責任を持つべきだろう。

今回の選挙と直接は関係のないことだが、自分にとっては選挙について考える、その手前に位置する大事な事柄なので、先に記した。

一挙には無理だとしても、言葉に責任を持つことを目指したい。

(つづく)

都知事選 前日 その5(2020.7.4)

(つづき)

投票には行ってきた。
投票先がないというひとの気持ちは、分かる。
候補者を、政策や公約の集積、束みたいに受け止めると、どうしても妥協が必要になる。
投票率の低さは、無関心にも由来するだろうが、選ぶ対象がないということもあるだろう。

どの候補者もよいので選べないみたいな状況だったらな、という反実的の願いを持つのはいいことだろう。


世の中の流れや状況的には、投票をするべきだしそれを推奨するのが妥当と思えるのだが、自分に限れば、奥歯にものが挟まったような物言いになる。

なぜか。
この一連のエントリで、投票についてスネに傷があると書いた。
その元となる出来事を、これから記したい。

まず迷惑はかかるまいということで、具体的に示してみる。

2017年の衆議院解散(9.28)と選挙日(10.22)の間の筈だ。
なんの手続きだったか、区役所を訪れた。

とにかく、何かの手続き(か支払い)をした後、おそらく同じ階に、期日前投票をするスペースがあることに気づいた。

(つづく)

都知事選 前日 その4(2020.7.4)

(つづき)

2017年の9月28日に、衆議院の解散があった。
この時の解散は、有り体に言って、公共的な理由がなかった。少なくとも自分はそう思っている。

(ここから先は、自分の言い分になる。

そして、言い分をよく聞かずに叩くことの意味を、真剣に吟味してほしい。)

だから、今回の選挙には投票をしないという抗議に、change.orgという場所でネット上の署名をした。

恣意的に為された、損得勘定だけが由来の選挙を拒絶するという位の訴えだった。

そのときの自分の主張は、投票所に行った上で白票を投じて、政治の状況に対する自分の意見を示すというものだったと思う。

極端なケースで、凄く低い投票率、例えば10%に満たなかった場合、民意を反映しない状況が変わりうると思った。

今は、投票棄権や白票について、違う考えになっている。
おおまかには、性悪説の追加されたことが一つ目で、低い投票率への認識が変わったことが二つ目だ。

天候が気になる。
次のエントリの前に、投票に行くかもしれない。

(つづく)

追記
存在理由があるかもしれないが。
リンチ(私刑)には大きな問題がある。
冤罪だった場合のことだ。
このことを煎じ詰めて考えてみると、確率的に冤罪を容認していくと、社会や集団における合理的規範や善悪の基準が消えてゆく。
この力学は集団同士にも働き、結局はより大きな力が得する結果に落ち着くのではないか。

自分がいい気になって記していることは知っている。