2020年7月7日火曜日

銃後の感覚と板挟みの思想

昨日は退嬰的に過ごした。

九州の水害が気になるが、後で調べる。
今日も雨だという。(九州から見て、東京は冷たく感じるだろうか。)

選挙についても、日々のことについても、ほんとうは自分が何を考えていたかを、記しておくべきだろう。
ブログと紙の二筋で残したいなんて思うけど。(心の利根川さんに黙祷する日は来るのか。)


起きたあと、ばらばらの意識が少しずつまとまって行く感覚、みなさんあるでしょう。

このブログは鏡を割った鳩、あるいは初期ポーリーみたいに始まります。

社会を人格化して捉えることは、人格化の意識があるかぎり、限定的に有用と思う。

銃後と最前線が、対になる言葉か。
銃後と司令室(社長室)かもしれない。

ともあれ、自分が最前線その他の場所で戦っていないという、銃後の感覚について考えてみたい。

八崎真悟(やつざき・しんご)という漫画のキャラクターがいたが、いい名前だと思う。

「ご覧。薄(すすき)の穂を渡る奴があるよ」という台詞がたしか『行人』にあった。

資本の投入(広い意味では資本主義になるか)が効果を発揮する条件として、一つに空間的なズレ、もう一つに時間的なズレがある、と指摘した文章をかなり前に読んだ。
書いてあった中身はだいたい忘れたが、一つ目が空間的な技術の違い(国や地域によっておもに生産技術の進み具合、発展の仕方が違うこと)だった筈。これはわかりやすい。

もう一つの時間的なズレが、どんな内容だったか。
単なる先行者利益とも違う感じだったと思う。
時間で追っていくと、同じ場所(国・地域)でも生産や流通その他の技術の進歩の度合(方向も含んでいたか)が違うから、その差分が利潤を産むとかそんな感じだったか。

とまれ、かなり話が逸れた。
本題は銃後の感覚と板挟みについてだった。

冗舌を促進しない点に目をつけて、原稿用紙や手書きに逆張りする人が出てきてもいいんじゃないか。

銃後の感覚というのはさしあたり、自分が最前線でことに当たっていないというだろう。
だから今の九州の水害についても、銃後の感覚とは少しズレるが気がかりというか、後ろめたさというかそんな感じを持っている人もいるだろう。

そういう気持は、普通は声高に叫ばれないものだし、叫ばれた時点で台なしになってしまう性質、部分があると思う。

疲れてきた。

後で書き足すかもしれないが、梗概未満の形でもいいから、書きたかったことを記してみる。

銃後感覚で前線に後ろめたさを持つ。
あるいは前線感覚で銃後を撃つ。
両面受けといいますか。
この二つの、挟み撃ちに合うような考え方というのがあるんじゃないか。

特に非フィクションの文章(ノン・フィクションとは違います)が正論で強すぎたり、逆に反省して弱すぎたりすることと、形として関係するように思うが果たしてどうか。

半フィクション化とは別の方向で脈がある気がする。

たとえば将来、自分たちの先に存在するであろう世代について。(いったん血縁を横においてもいい。)

「可能的には」、いま現在の世の中に住む自分たちから見て、そいつらは銃後になりうる。
(大なり小なり、しわ寄せを喰らわせる自由もある。その場合は広義には、自分たちが遡って銃後だったということにもなる。)

仮に、ずいぶん先まで欲張って想定して、将来世代がよく生きられる環境と社会条件を整備できたとするじゃないですか。
もしうまくいった場合、将来の世代に、「お前ら銃後じゃないか」と、社会的にも個人的にも思うようなら、どこか間違っているんじゃないか。

時間的には、仮定される将来世代からは自分たちが銃後。
前の世代から見ると、今の世代が銃後。
各々不満や言いたいことがあるだろうけど、大まかには。

同じ時代でも、熾烈な状況の場所・人とそうでないと場所・人がある。
このことを、安易な糾弾でなく丹念に考えていくセオリーが、少なくとも日本では未だ、確立途上に思う。

それはそれとして、むろん、もうちょっとどうにかならないか、と感ずる部分もある。

差別の問題や歴史の問題でも、この板挟みな感じ方、それに基づく語り方は少しずつ生まれてきているように思える。

今までもあったのだろうが、自分の観察範囲で目につくようになってきた。

自分はひとりで生きているわけではないので、長い目で見たり見られたり、という感覚が少しにせよあることを、ラッキーだと思う。

自分が記してみれば分かるけど、その人のすべての要素が会話にせよ文章にせよ日常生活にせよ、あらわれることはまずないですね。

紙の日記や文章も残したい。
なんにせよ、雑多に記したので、後で削ったり足したり、修正するかもしれない。

至難ですが。みなさん元気で。
ヤケをなるべく起こさず行きたいものですな。

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