東京大空襲。
自分はほとんど知らない。
大きく特異な事柄を伝えるというのは、とても難しいと思う。
個人的な体験でもそうだから、広く国や社会が複雑に絡むなら尚更ややこしい。
伝える手前に、自分がその体験をどう感じ思うか、どう(現在)位置づけるか、という個人的な作業がある。
特に後者は大事と思うけれど。進まない出来事には理由があると考える。
その構えが出来たら、今度はそれを社会とどう調和させるか。
この段階で、(個人の考える)位置づけが変わるということがありうるでしょうか。
従来型の対話に加えて、ここも含め、変則的な、一対一対応ではない、話の交差も広義の対話、鼎話(?)、議論と言えなくもない。
うえと一見矛盾するが、親密な間柄の、膝を突き合わせた話でないと出てこない気持は当然ありましょう。
そういう微弱なやり方でないと伝わらないようなことがあるとは思う。
いま世間に流通している言葉、その使い方を考えると、自分は元気がなくなる。
無口な人間の意見ほど貴重という考えがある。
また、口数が多いから饒舌ともかぎらない。(が、静かさとは関係がある。)
いずれにしても、(それが仮に絶対確実・未来永劫でないとしても、)好ましいと思える人物の顔が浮かぶのは、悪くないことに思える。
色々のとりこぼし、見当はずれもあるだろう。
今は疲れてきたので、このブログの文章をここで留めて中断してみる。
断片でもいいじゃないか&ここはブログなのでの精神で。
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