「空の鳥をみよ。かれらは種蒔きもしなければ、刈入れもしないし、また穀物置場に集めもしない。そして、諸君の天の父はかれらを養うのだ。諸君はかれらよりもよほど価値あるものではなかろうか。諸君のうち誰が焦慮することによってその生命をわずかでもひきのばすことができようか。また何ゆえに諸君は衣服について思い悩むのか。野の百合はどうして生長するのかを考えてみよ。(……)」
この個処には、原始キリスト教義のせせこましい神経症には、大凡(おおよそ)似つかわしくない開放感があるが、この開放感は、けっして空の鳥とか野の百合とかいう言葉からきたのではないことがわかる。人間の生きている意味を神とむすびつけたり人間の精神の動きを神への乖離(かいり)ということで刺戟(しげき)したりするような概念が存在していないからである。(中略) 詩篇やタルムッドでは、神をたたえるためになされた比喩(ひゆ)であるが、[マチウ書の]垂訓では、神は何でもしてくれるのだから、まかせておけ。びくびくするな。というだらしないと言えば言える教訓にかえられている。
(吉本隆明「マチウ書試論──反逆の倫理──」、講談社文芸文庫『マチウ書試論|転向論』収録)
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