〈主語が複数になると述語が暴走する〉
凄い表現をする、と思った。英文法の授業で、生徒に教えているようだ。鼎談の時にパッと思い浮かんだものではなく、家で必死に考えてきたフレーズだろう。と僕は邪推した。
確かに、これは言えると思った。主語が単数だと、人間は謙虚になる。「僕はこう思います。でも違うかな。間違っていたら教えて下さい」…と。「勉強不足だから、よく分かりませんが、最近私はこんなことを考えます。どうでしょうか」…と、遠慮しながら謙虚にものを言う。でも、主語が複数になると、そうは言えない。「私達はこう思いますが、違うでしょうか」などといった言葉はない。「私達」「我々」になった途端、〈正義〉になる。強硬になる。
凄い表現をする、と思った。英文法の授業で、生徒に教えているようだ。鼎談の時にパッと思い浮かんだものではなく、家で必死に考えてきたフレーズだろう。と僕は邪推した。
確かに、これは言えると思った。主語が単数だと、人間は謙虚になる。「僕はこう思います。でも違うかな。間違っていたら教えて下さい」…と。「勉強不足だから、よく分かりませんが、最近私はこんなことを考えます。どうでしょうか」…と、遠慮しながら謙虚にものを言う。でも、主語が複数になると、そうは言えない。「私達はこう思いますが、違うでしょうか」などといった言葉はない。「私達」「我々」になった途端、〈正義〉になる。強硬になる。
「我々は断固として闘うぞ!」
「我々は許さないぞ!」
「我々は○○を打倒するぞ!」
…と。
「我々は許さないぞ!」
「我々は○○を打倒するぞ!」
…と。
主語が複数になると、述語が暴走するのだ。そして、述語は「スローガン化」する。非妥協的なものになる。正義という衣をかぶって暴走するのだ。単数の時は謙虚で、思慮深くて、冷静なのに、なぜ複数になると暴走するのか。これは不思議だ。数が集まると、その中で個人の間違いが正され、共通の正義が形成される。そう思うのだろう。皆が集まって討議する。そうすると、素晴らしい結論が出る。いや、出るはずだ。という民主主義の思い込みがあるからだろう。子供の頃、ホームルームで討論した。あの雰囲気だ。
皆で討論して決まったことだから正義だ。正義に違いない。そう思う。よく、共産党や他の革命党派で言う「民主集中制」という言葉もそれを表している。皆で決めたことだから正しい。それを守っていこう。その正しいことに、あとで文句を言うのは間違っている。党を分裂させることだ。敵に通じることだ。だから除名だ、となる。主語が複数になると、述語は〈正義〉になるから、頑なになり、非妥協的になり、そして暴走するのだ。
皆で討論して決まったことだから正義だ。正義に違いない。そう思う。よく、共産党や他の革命党派で言う「民主集中制」という言葉もそれを表している。皆で決めたことだから正しい。それを守っていこう。その正しいことに、あとで文句を言うのは間違っている。党を分裂させることだ。敵に通じることだ。だから除名だ、となる。主語が複数になると、述語は〈正義〉になるから、頑なになり、非妥協的になり、そして暴走するのだ。
(『鈴木邦男の愛国問答』 第73回「脱原発デモに参加した」より)
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