2015年4月1日水曜日

鍵盤一打H270331火

一一七
今夜はここまでだらだらと過ごしてしまった。
 本日始動がおそかったこと、明朝早めの時間帯にだいじな用事があることの二点から、朝までバランスよくやるべき作業をすすめたい。
 動くに従い自分の能力に嘆息するところはあるが、進まないのが一番の敗けなので前に一歩踏み出してゆく。

 日中、前述の通り出遅れ気味ではあったけれども最低限のことはできたかなと。(上や横を見るとキリがないので遮眼革(ブリンカー)をつけた気で目先のことに集中する。)


 久々にブローティガンを読んで、良いと思う。丁寧な読み(受け)により、それ本来の豊かさが見えてくるということがある。
 『芝生の復讐』冒頭に置かれた表題作が戦争や(おそらくは)米国史にからんでいそうなので、そこから随意に連想をふくらませる。
 今はみな索漠とした不安をかかえていて、それは状況からして当たり前のことだよなー、と。だから非常にまずいともいえるし、こんなに沢山の人間がいるのに、よくここまで暴発しないで済んでいるとも感じる。
 そうして、宗教なり哲学・信条なり、形問わず先行世代から承継している蓄積を参照せず(できず)苦境に面して、立派に振る舞うことの出来るような精神力は、誠ごく一握りの人たちしか持っていないのでは、と推す。
 知的虚栄心から身の丈に合わない議論を持ち出すのはもちろんアホの輩のすることだけれど、やはり大審問官の問題系、突き詰めれば(このばあい広義の信仰の)自由は、人びとに荷が重過ぎるような気もする。最近は特に。

 要するにこういった事々は夜にのみ考えるのが許される訳で、未着手のことが山積では実に我ながら薄ら寒いと感ずるので、ひとつずつやることやっていく。という尻すぼみの感じで今回は終わり。

本文から漏れた感想:
昼は桜が咲いて陽気で、いかにも春という感じだった。これはご祝儀というか特需と考えるべき。が、このような思考を突き詰めると、経済のこと以外に俺たちは語ることを失ってしまうのではないか。考える網目が粗くなってしまった。木偶の筆達者よりましと取るしか。

追記:
今日はメールソフトの送信済みの箇所をみて、自分のPCメールアドレスから覚えのない内容のメールが送られているのを発見して、それでリズムを崩してしまったのだ。これのほかにも順次処理していかないといけないことが多いが、畢竟部屋の掃除を怠っていたという風に割り切ってボチボチ行こう。

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