体力と希望について(定礎)

このエントリでは、体力気力と連動してくる、希望のこと、そして年令のことなど気ままに書く予定。であります。

希望というと手垢がついてるというか、価値観が忍び込んでるので、たのしみ位に言い換えておきます。奇跡より奇遇のがカジュアルなのと同じ理由で。

若いときの価値観でそのまま、改造を加えず後半戦やってくのはつらい。堅物老賢者的な道徳を若いときに押し付けられるのは、きつい。その逆のことが今まさに起こっている。のでしょうか。
時期不明A

(つづき)

一ヶ月以上、間があいた。体力の問題かは不明。
体力減じてきたら、別の価値観が必要となる。中年の危機、クライシスなんて言葉があるけど要は中身が大変問題でありまして。ひさびさに頭を使ってみる、みたいなことが発生するのも体力器量節約メソッドを確立したがゆえの現象であります。10/31
ようするに、体力と反比例して、動物的でない要素が価値観に混入される希求の度合いが動く。みたいな仮説をためつすがめつ検証展開練磨などしたいわけであります。10/31B

(つづき)

この文章はワープした。
その間隙を埋めるのは君だ(名著『幻に賭けろ』を参照)。
吉本隆明。オウムの事件、そして原発事故直後、ラジカルな発言をした。
そこに元皇国少年、特攻精神の名残をみる。善し悪しはわからない。思想と行動なんてじぶんの手に余る。
これは言えるのかな、ということがある。忌憚のない感想だが、特に後者に関しては、いかにも性急と感じる所があった。当時は事故からそれ程経っておらず、原理原則論を唱える必要がなかった。するなら前段が必要だった。聞き手による構成の拙さもあるが、殉死を望んでいるような印象も受けた。
なにがいいたいか。ヨレヨレで矛盾のかたまり見たいな人間も、上段をふまえたら違って見えてくる、違う思想が(彼ら彼女らに)走っているのかもしれないと思えてきませんか、ということです。

『イリアス』はguchonの「穴水」を掛けっ放しで読んだ。コレはあたらしい読みだと思うが、例えば鶴見(含む済)の対談なんかも、新刊のつもりで読んでいけるんじゃないか。延々と死体を奪い合い、坊っちゃんよろしく馬を馴らす彼奴を鎮魂する物語だった。ジャンルは疑いなくアクション。

どう転んでも、スポロガムのおまけ見たいな人間だってエリート意識、特権意識はあるのでそこには余り拘りすぎずにゆきたい。
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ゆーて溜めている日常事に向わな死ぬる。金正男の死亡はじつに残念だった。
2/15V

cf. http://2boy-yakyu.blogspot.jp/2016/09/h280901.html

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