2014年12月8日月曜日

引用ノック0676: ビリーとジャド

彼は完全に動きがとれなくなる。(……)この当時、イングランド北部では、ビリーのような少年たちは、熟練を要さない労働のために必要とされたんだ。映画を見た人々は、「彼は動物園で仕事を得ることができなかったのかい?」ということを私たちに言ったが、それは完全に論点を見落としている。なぜなら、もし単純労働として利用されるようになるのがビリーでないなら、そうした境遇にいるほかの誰かになるからだ。(……)私たちが映画のなかであまりはっきりさせなかったものは、ビリーがジャドの賭けに相当する金を失わせてしまったため、ジャドが怒って(……)。彼は一週間は仕事をせずに過ごせたはずだ。石炭の粉を肺に吸い込む地下ではなく、太陽の降り注ぐ野外での一週間。ジャドがまさに悪党のようにならなかったことは重要だった。というのも、彼には怒る資格があったからだ。しかし、私が言うように、私たちはそのことをあまりはっきりさせなかった。

(グレアム・フラー編 村山匡一郎+越後谷文博訳『映画作家が自身を語る ケン・ローチ』「光を民主主義に当てる映画を撮りたい」)

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