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訳しているうちに、私はすっかりミラーの短篇が好きになった。読んでみてすぐ分るとおもうが、短篇は彼の長篇とはずいぶん趣を異にしている。ミラーの長篇はダダ的であり、文章もそうである。ミラーの長篇は、一行一行が強力な破壊力の砲弾である。砲弾の攻撃目標は、ダダイストたちと同じようにみえる。ただ、ダダイストたちは、破壊することだけに一所懸命で、ついには自分自身を破壊したり、あるいは破壊したあとに建設するものが見付からないで、結局平凡な世俗の人になって長生きしたりしている。
長篇という砲弾で瓦礫になった土地に、ミラーは歩み入ってゆき、そこで人間らしい人間にたいする頌歌を、静かな口調でうたう。それがミラーの短篇である。そこには、彼が長篇において、人間らしくない人間や血の通っていない生き方を攻撃する、あの爆発的なところはない。つぎつぎと投げつける手榴弾のような、言葉のかたまりもないし、性のにおいを放つ肉のかたまりもない。この短篇集に、性描写がほとんどないことに驚く読者も多いと思う。
ミラーが爆発をつづけながら、自爆もせずダダとして長生きしている秘密を、私はここに見たようにおもった。
以下は、「ディエップ=ニューヘイヴン経由」の末尾の箇所の訳註として読んでいただきたい。
この作品の末尾のあたりに、どうしても分からぬ箇所が出てきたのである。突然、それまでの部分と何の関連もない固有名詞が二つ出てきて、それが人の名前らしいと分っても、どういう人物なのかさっぱり分らない。
人名辞典にも出ていないし、英語ならびにヘンリー・ミラーに精しい人間に問い合わせても、解決が付かない。「文芸」に載せたときには、やむなくその部分を直訳にして、付記を書いた。『なお、末尾の数行に不明の箇所がある。「マック・スウェインの顔だ! 彼は『悪い狼』で、チャーリーは苦闘するサムソンだ」という部分である。これは斯界の権威にいろいろ問い合わせてみたが、結局はっきりした解答が得られなかった。そこで、目下、作者ヘンリー・ミラーに問い合わせているところである』と書いた。
「マック・スウェイン」というのと、「チャーリー」というのが分らないのである。「チャーリー」については、私が「これはチャップリンのことじゃないか」と言ってみたが、私の相談相手も、私自身も、「まさか」と言って、それ以上考えなかった。チャップリンもミラーもアメリカ文明を嫌悪している巨人なので、そういう連想が浮んだのだが。
ところで、ミラー氏はさっそく返事をくれた。それによると、チャーリーは、チャップリンのことなのである。彼は次のように説明してくれている。
「マック・スウェインは、無声映画時代の喜劇俳優で、チャーリー・チャップリンはしばしば彼の相手役を演じている。マック・スウェインは巨大漢で、獰猛な顔つきをつくっていた。チャーリーは、もちろん、みんなから脅かされる小男の役を演じた。サムソン・アゴニストは、ミルトンの劇の登場人物である。もちろん、私はこじつけてチャップリンをそういう名前で呼んでいるのだが、しかしそれは作者の私の特権である」
マック・スウェインとはそういう男か、これは分らないのは無理もない、と私はおもったが、しかし分った人がいた。手紙が着いてしばらくして、埴谷雄高氏から電話があった。氏は古い映画のことなら何でも知っている、と前置きして、手紙の内容と同じことを教示してくださった。氏はさらに、「映画の字幕には、マックではなく、マークと出ていたが」と言われたが、これは原文でもミラーの手紙でもMACKとなっている。
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(後略)
(吉行淳之介「訳者あとがき」:ヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』角川文庫)
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