2017年5月14日日曜日

引用ノック0930:

[この稿が新聞に出た二三日あとで、私は高等工業の学生から四五通の手紙を受取った。その人々はみんな私の講演を聴いたものばかりで、いずれも私が此処で述べた失望を打ち消すような事実を、反証として書いて来てくれたのである。だからその手紙はみな好意に充ちていた。何故一学生の云った事を、聴衆全体の意見として速断するかなどという詰問的なものは一つもなかった。それで私はここに一言(いちごん)を附加して、私の不明を謝し、併せて私の誤解を正してくれた人々の親切を有難く思う旨を公けにするのである]

       三十五

 (……)
 中入になると、菓子を箱入のまま茶を売る男が客の間へ配って歩くのがこの席の習慣になっていた。(……)菓子の数は一箱に十位の割だったかと思うが、それを食べたいだけ食べて、後からその代価を箱の中に入れるのが無言の規約になっていた。(……)

       三十七

(……)
 母の名は千枝といった。私は今でもこの千枝という言葉を懐かしいものの一つに数えている。(……)

       三十九

(……)家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)とこの稿を書き終るのである。(後略)

(夏目漱石『硝子戸の中』 新潮文庫、1952年ほか; 初出:1915年)

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