実を言えば、二人の女は自分たちの主人であり叔父である彼が、少しでも回復するとすぐにもまた姿を消してしまうのではないかと恐れて、当惑していたのであるが、結局のところ、事態は彼女たちが想像したとおりになったのである。
しかし、この物語の作者は、ドン・キホーテが三度目の旅で立てた武勲を、好奇心にかられて熱心に探し求めたものの、その情報を、少なくとも信頼すべき文書の形で見つけることはできなかった。ただ風評によって、ラ・マンチャの人びとの記憶のなかに留められているのは、ドン・キホーテが三度目に家を出たときサラゴサにおもむき、その市(まち)で行なわれた名高い馬上槍試合に参加したこと、そしてここで、彼の勇気と分別にふさわしい数々の冒険が起こったということである。またドン・キホーテの最期と死についても、作者は何ひとつ調べることができなかったが、あれで彼が幸運にもある老医師にめぐりあうことがなかったら、永遠に分からずじまいになっていたことであろう。この医師は、本人の言うところによれば、改築のために取り壊された古い礼拝堂の崩れた礎石の中から見つかった鉛製の箱を保存していた。その箱の中にゴチック文字ではあるがカスティーリャ語の韻文で書かれた何枚かの羊皮紙が入っており、[……]さらにほかならぬドン・キホーテの墓のことが、彼の生涯や習慣にまつわる墓碑銘や賛辞とともに記されていたのである。
しかし、そのなかできちんと判読できたのは、この新しく独創的な物語の信頼するにたる作者が以下に掲げる数篇だけである。(中略)
鉛製の箱のなかにあった羊皮紙に書かれていたのは、次のような言葉で始まることがらであった──
(中略)
Forse altri cantera don miglior plettro
(おそらく誰かほかの者がよりめでたく歌うであろう)
(セルバンテス『ドン・キホーテ 前篇(三)』「第52章」 牛島信明訳、岩波文庫、2001年)
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