2015年11月21日土曜日

引用ノック0793:レオカディア


 罪は理性と意志に由来するものであり、レオカディアの意志はかの不始末に関与しているわけではないので、彼女がたとえ私生児を生んだとしても、名誉が傷つくことはない。こうした立場はまさにストア的である。しかしセルバンテスはストア主義者とか、抽象的なモラリストという以上の何ものかである。我々の内なる意識や家庭の内部では、たしかにレオカディアの父親のように考えることもできようが、舞台はトレードである。その街の通りや広場では現に、名誉に関する民衆的見方がまかり通っていて、人々に辛く苦しい思いを余儀なくしているのである。
(中略)
 世間の与える評価としての面目や汚名が、本質的価値をもつこともありうる。セルバンテスは賢明にも、問題のいかなる側面をも見逃すことはない。そうした理由から次のような表現が当てはまるケースも存在する。
「一ポンドの真珠より一オンスの名誉に天秤は傾くのだ。 これは名誉のすばらしさを知る者のみが知る喜びだろう。卑賤の者も徳を励めば誉れに浴すが、富貴の者でも悪徳に流れれば汚名を受ける」。[セルバンテス『ペルシーレス』]
 名誉に関するセルバンテス的概念の本質、最高の瞬間に人物達の生が写し出すものは、人文主義の道徳観であり、名声や血筋、階層などとは無縁の、理性的に見て独立した徳性に基づく、純粋な人間的尊厳の概念である。つまり《人はおのおの、おのが運命の作り手》[『ドン・キホーテ』]である。

(アメリコ・カストロ『セルバンテスの思想』「第七章 道徳観 名誉」 本田誠二訳、法政大学出版局、2004年)
(太字部分、原典では傍点)

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