美文と微分。
従来とは違う美意識を持った美文家またはその愛好者がポツポツ現れてる気がする。
問い:
巨視的であることと特定の領域で達成度を上げることの間には、何らかの相関があるか。(独立か。)
メモ:美文と(その)対象を、マクロとミクロ、全体最適と部分最適などに喩えたくなる。話し言葉では容易にそういう乱雑な比喩を今までしていた気がする。
が、比べることによりこぼれ落ちる何かがあって、それ(ら)が自他問わずにツッコミを入れられることにより明確になり、精密な議論になっていくのだろうと推理。
こういうやり方で、西洋式の長文型思考(必要以上に長いんだ、現代人にとっては)が発展してきたのかもしれない。
これに対し、簡潔なほうが洗練されているよ的な主張があり。
理想は「言わずともわかっている」関係なんだろうけど、時間により人は変わるので都度確認作業は必要となるし、そもそもここは開かれた場所なので明記する次第。
蛇足といえば蛇足なので、フォントを小さくした。もっと洗練されたやり口、提出の仕方はあるだろう。が、ゼロよりはましと考える。
しかし、明記しないかぎり考えてないだろうと措定する構えを、効率的であると同時に非常に貧しいと思う。が、この貧しいという考えはその美意識の保有者が持つ特性により明言されることはなく……(以下略)
結論だけ言うと、提出の仕方を(時間を掛けて西洋式合理的思考で都度参照できるようにしつつ)洗練させていくしかないだろう。
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