ゼロよりは1/Nのほうがましだろうということで、簡便に。
サボり癖もよくないしね。
ひとことでいえば、百田氏や田母神氏や、あるいは物騒だったり迂闊だったりする発言を放つ人たちについて、危険だと目するなら尚更刺激してどうするのよ、という身もフタもない考えが基本にあるんですよ。
そうして、そのような攻撃性が自分にあることに無自覚(を失念)していたり、自分だけはシロだと思ってる陣営についても、当然この世に存在する限りは、外から見れば彼ら自身も色付きなわけで。
「好戦派は論ずるに値しない」ってのもなんというか「話せば分かる」「まあまあ、落とし所を探そうじゃないですか」的な態度からかけ離れていて、好戦的に感じるってか「五十歩百歩」と感得されるところもあり。
(ま、自分は一桁歩ですが。)
なんだかなー。
という気分が率直なとこですが、そこから更に言葉を紡いで行きたくはあります。
自分たちがたいした人間じゃない、ってことを忘れちゃいそうな局面なので、難しいけれど”これは流石にこいつらアホじゃないのか”という所をどれだけもちこたえられるか、てシンプルな要素に焦点が当たって収斂していくような。
>http://2boy-yakyu.blogspot.jp/2014/02/blog-post_7625.html
>これについて、考えを記して残すこと。
キーワード→下半身(欲動、無意識)、一般意志、構図(の編み方)、限定とトレードオフと運営気分、武闘派に対するアプローチ、ひとが変わること、作者と作品
>>
『永遠の0』自体は普通に読めば好戦的な小説じゃなくて、むしろ相原コージ『ムジナ』的な内容と思う(映画と作者は不明)。愛国と戦争マンセーのあいだには「本来」相当の距離がある筈で、題名だけみて過度な反発覚えるのは拙速&不寛容と感じるけど、僕らの余裕がなくなって行くことの内に普遍性[が]ある[と考える。]
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