國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(2011年、朝日出版社)
・「つまり、気晴らしが熱中できるものであるためには、お金を失う危険があるとか、なかなかウサギに出会えないなどといった負の要素がなければならない」(太字部、原文では傍点)
・「<本来的なもの>はたいへん危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが<本来的なもの>と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。」(165p)
・「しかし恐れないでほしい。彼[ハイデガー]は非常にゆっくりと、一歩一歩論理を積み立てていくタイプの哲学者である。」(p198)(太字部坪井)
・ノヴァーリスはかつて「郷愁」という気分について語った。ならば、いま、私たちはどんな気分のなかにあるのか? どんな気分について考えればいいのか?
・むなしい状態に放って置かれることを、<空虚装置>と呼ぶことにしよう。(p213)
・「楽しむためには訓練が必要だ」と言うと、どうもハイカルチャーのことが想像されてしまうきらいがある。実際、ラッセルは食のような楽しみのことは考えていない。彼は(……)訓練を必要とする楽しみとは、すなわち、「てんで教養のない人たちには縁のない繊細な楽しみである」と述べている(こういうところがラッセルという哲学者の限界である)。
ブックガイドメモ
・ラース・スヴェンセン『退屈の小さな哲学』(ノルウェー)
・ヴェブレン『有閑階級の理論』(持ってたかも?)
・ユクスキュル「生物から見た世界」
・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』
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