(価値と存在について。)
スタヴローギンはダーリヤへの手紙に「(…)この力を何に用いるべきなのか――それが私にはついにわからなかったし、(中略)いまもってわからない」と書いている。この「この力を何に用いるべきなのか」「ついにわからなかった」という言葉は、<何に価値を見出せばよいかわからなかった>と言いかえることができる。情念の間の平等、同質性を崩して追求するほどの価値は最後まで見つからなかった。
価値と存在の関係について論じるために、ヘミングウェイの『日はまた昇る』から最後の部分を引用する。この小説は戦争で性的不能になった主人公ジェイクと彼のかつての恋人ブレットを中心に展開されるが、何の解決もなくどこへたどり着くということもなく、希望の見出されないまま物語はおわる。しかしこの小説の最後は奇妙な明るさのようなものに包まれている。
きびしい暑さで、日ざしがまぶしかった。家々の白さがまばゆく目にしみた。(中略)
「ねえ、ジェイク」ブレットは言った。「あたしとあなたとだったら、とても楽しくやっていけるはずなのに」
前方でカーキ色の制服を着た騎馬警官が交通整理をしていた。彼が警棒をあげると、車は急に速力を落としてブレットのからだをぼくに押しつけた。
「そうだな」ぼくは言った。「そう考えるだけでも楽しいじゃないか」(終)
(新潮文庫 大久保康雄訳)
主人公ジェイクの最後の言葉「そう考えるだけでも楽しいじゃないか」は、原文では”isn't it pretty to think so?”となっている。訳文の「楽しい」に相当する”pretty”という言葉の意味を辞書で調べると、<あまり美しくも重要でもないが、惹きつけ満足させる(坪井訳)>”pleasing and attractive, without being very beautiful or magnificient”と載っている。重要でないまま、価値のないままに何かににひきつけられるということは、価値の原理とは異なる原理によって、その何か(存在)に対して愛着を持つことである。価値のないものにひきつけられるとき、存在と価値(悪霊)の関係が変化していると考えて良い。ここに、スタヴローギンに憑いている悪霊の下落する余地があると思う。スタヴローギンは悪霊に対して、こう宣言できる。
「適当な理由で行動してOK」
弱い欲望を肯定する考え方がある。
より小さくあることを望む自由があり、より小さなもののために生きる自由がある。
朝、起きて、何もすることがなかったら、「おはよう」と言ってみることである。
朝、起きて、何もすることがないような気がしてよく考えてみてそれでもほんとうに何もすることがないなら、「おはよう」と言ってみることである。(中略)
朝、起きて、昨日読みかけたままの本を開くと「おやすみ」と書いてあったなら、「おはよう」と言ってみることである。(中略)
そこに何も書いていなくても「おはよう」と言ってみることである。
何故なら、親愛なる君。
ぼくたちは朝がくるたび、それがどんな意味か知らないまま、避けることのできない運命のように、そう言いつづけてきたのだ。
(高橋源一郎 英隆 『朝、起きて、君には言うことが何もないなら』 表題作 講談社 1986年)
存在することもできるし、消えることもできるという場所には根源的な自由がある。
朝がくるたび、どんな意味か知らないまま、「おはよう」と言いつづけることには別の自由がある。前者が<この世>からの自由とすれば、後者は<この世>への自由である。
この文章を書いて少したつと、悪霊と心中したスタヴローギンのことが忘れがたくなった。
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