2012年1月2日月曜日

無謬主義とクレーマー社会(と村上春樹)

上杉隆氏の『この国の「問題点」』で「無謬主義」という言葉が出てきて、ずっと頭のどこかにひっかかっていた。
で、ある人のツイートを見て、「クレーマー社会」≒「無謬主義」だなあ、と。
もちろん、「いいクレーマー」と「わるいクレーマー」がいる。
クレーマー≒めんどくさい人≒ダメ、ってのもひとつの「無謬主義」なわけで。
(ちなみに、この「いい〇〇とわるい〇〇がいる(ある)」というのはかなり応用範囲が高いので、なにか悪者をつくりたくなったら唱えてみるといいですよ。)

「無徴性」という言葉で検索して、以下の記事にぶつかったのが事の発端。

『地下生活者の手遊び』
「非政治の政治性とムラカミハルキ(追記アリ」
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090203/1233591700

(以下、一部引用)

この非政治の政治性というものを、このエントリでは【無徴】というコトバで言い表していますにゃ。ムラカミハルキの文学ってのは、NOBODYに受容された文学なのではにゃーのかと思うんだけど、これはまあ読むのを投げ出した僕が言っても説得力はにゃーんだけどな。
説得力なしついでにもう少しいうと、ムラカミハルキはけっして芸術至上主義の作家ではにゃーだろう。先日のエントリで引用した鮎川信夫の言葉によると「文学を第二義的なものとして取扱っている」作家なのではにゃーだろうか。
この状況は、ムラカミハルキが何を第一義的なものと考えているかを明らかにするでしょうにゃ。だから、エルサレム賞をめぐるムラカミハルキの言動にはファンこそ注目すべきなのではにゃーかな?
そして
【無徴】に受容されたムラカミハルキというペルソナの振る舞いには、僕も興味津々なのよ。
以下は、自分のツイートから。


QT 「非政治性というのは現状維持に手を貸すことにたいていなるわけで、反体制が青臭くて暑苦しいものであるのなら、カッコいい非政治というのはその実はえらく生臭く老かいなシロモノですにゃ。」(「ムラカミハルキと無徴」)http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090203

(続き) QT 「僕にとっては、ムラカミハルキってのは政治的にすぎて読めなかったということですにゃ。」 (「ムラカミハルキと無徴」『地下生活者の手遊び』) http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090203 (目からウロコ。の重い問題提起。「無徴」と「無謬」の違いなど、考えてみよう。)

「無謬性」っていう言葉、上杉隆『この国の「問題点」』に出てきてひっかかっていた。『サウダーヂ』の監督を交えたトークショーでも「無謬性」(の猛威)がテーマの一つだったと思うし。功罪あるだろうケド。三が日なので堅苦しい話はここまでに。お目汚し失礼しました。

引用元のエントリの主張「すべて」に賛同するわけではないけれど──正直にいうと、そもそも自分に教養がないので「わからない」ことも沢山ある──、かなり重要な問題提起ではあることは間違いないと思う。
自分はここ最近の村上春樹にボンヤリ違和感があったんですが、少なくともその理由の一部は、上のエントリが取り出している様に感じる。
村上春樹の原発事故に対する発言、「我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。http://tomtittot.asablo.jp/blog/2011/06/11/5906239)に対して、<どの口が言うのか!>と大塚英志氏がニコ生で怒りを発したのと上記エントリの肝となる主張は、ほぼ同じだ。
(文学フリマ大交流会トークセッション『震災下の文学』 大塚英志×市川真人 (番組ID:lv52642362) http://live.nicovideo.jp/watch/lv52642362 )

仮に大江健三郎がいかにスマートでなかった(ように見えた)としても、明らかに「純文学」業界で村上春樹に異を唱え、大江氏を援護する人は少なかった。大江健三郎はダサい、政治はダサい、そういう風潮は確実にあった。
そして、外から見た場合、そういう業界の文脈や背景はわからないのだから、311以降の文学畑の人たちの発言は、311以前に自分がどういう立場をとってきたか、それを「言われなくても(人から突っ込まれなくても)」”明示”しないとお話にならないと思うのだ。
その説明がないので、いくら村上春樹といえども、いまのところ全幅の信頼を置けない、というのがいまの自分の考えで、ごく普通の反応(態度)じゃないかな、と思う。
村上春樹氏くらいの世界的なネームバリューがあるなら、宮崎駿氏のようにゲリラ的に動画のメッセージをウェブにアップすれば、甚大な影響力があっただろうに。
それは、偶然こんかい村上氏がやらなかったのではなくて、矢張りそういう「無徴」的な作品を彼が書いて来たこと、社会と距離を置く、政治と距離を置く(ように見える)生き方(「仮面」かもしれないが)を選んだことと繋がっていると思う。

「黙殺」や「無関心」という歴史は本人たちが思っている以上にダダ漏れなんだから、もっと腹を割って語ってくれ、いや、ください。
そうじゃなければ、あなたがたの今までの仕事がすべてウソ臭く感じてしまうよっ!
いま現在もリアルタイムで歴史は動いてるし、それはかなりの部分知識人、しかも年配の方々によって可変(OR「可触」)の筈なので、苛立った文章になっていますが……。

※”「無徴」的な作品”という表現はあいまいで判りづらいかもですが、「無徴」的でない「行動」として例えば震災後の津田大介氏や東浩紀氏、ほか多くの人の活動(含む「呟き」)が念頭にあります。
だから、平時に「無徴」的な作品を書くこと自体よりも、非常時に村上春樹氏をはじめその世代の知識人が取った(或いは取らなかった)行動に、自分は苛立っているのかもしれません。
そして、どれだけ業界内の事情があるか知らないけれど、とくに東氏のことについて全く言及しないで垂れ流される「文学・批評」業界の言説を端的に信用できねー、ケツの穴が小せェなー(失礼)、と思います。
とりあえず今は。

2012 1/2

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