2011年11月25日金曜日

「黙殺」について

俺もそうだったが……
いまは純文畑・思想畑の人たちの社会評論をまともに読む気がしない。
「気分」や「語り口」とかそんな曖昧模糊としたもんじゃなくて。単純に信用できないし、狭い世界での「子どもの遊び」だったよな、と。
俺も五十歩百歩だが、少なくとも、これからは傲慢ではありたくないと願ってるし、努力するつもり。
ほかのでっかい問題でもそうだけど、間違い認めれば良いだけの話だけどなー。自分なりにできる範囲で警鐘を鳴らしたつもりだ。
プライドと心中するのならどうぞ勝手にしてくれ。せめてしばらく黙っていてはほしいけれど。

「ひどい物書きが氾濫(はんらん)しているので、気をつけてください。たとえば私の本を読んで、『ここに書かれていることを確認できない』と書き、したがってひどい本だという論旨の評論にずい分めぐり会いました。彼らは、あまりに無能力で、あまりにも子どもです。評論家と自負するなら、なぜ自分で事実を確かめる努力を怠るのか。なぜ調べることもできないのか。」(広瀬隆『新版 危険な話』1989年)

追記:
過去に自分が尊敬した人間は、今も敬愛の念を抱いている。ただ、それはそれ、これはこれ。相当数の知識人(主に文学者)が子どもである(あった)こと、その事実を自覚していない、或いはいなかったことを「美しくない」と感じます。(2011.11.25 22:00頃)
http://book.akahoshitakuya.com/b/4101132313

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