(……)『敗戦後論』の最初に書かれている、、彼自身の小学生の時の体験、相撲の勝負が一瞬のうちに柔道に変わり、その〝ねじれた〟勝負のルール破りに加担したと思った時の恥ずかしさ、「恥じ入り方」(無限ではないが)が、加藤典洋の『敗戦後論』の論旨の強度を保証しているのだが、しかし、それは誰にでも分かりやすく説明されているというようなものではないのである。加藤典洋は、どこで〝敗戦〟を体験したのだろうか。それは、少なくとも彼が生まれる前の、一九四五年の「敗戦」でないことは確かだ。私たち(これは加藤や私を含めた「戦無世代」のことだ)は、どこで、どんなふうに「敗戦」を体験したのだろうか。そして、その、〝戦後〟後を、どんなふうにやり過ごしていたのだろうか。
(川村湊「敗戦後論」岩崎稔・成田龍一・上野千鶴子編『戦後の名著50』 平凡社、2006年;太字は引用者による)
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