国民国家がいつか波打ち際に指で書かれた文字のように消えていく存在だと知らされて、そうか、それなら、とそこから考えはじめられるような状況には、わたし達はないのではないだろうか。そう考えはじめるには、それまでにやっておかなければならない侵略国「国民」としての仕事が、わたし達に残っているのではないだろうか。そしてそこからはじめなければ──何度もいうが──わたし達に国民を再定義し、よりひらかれたものにする起点は、築かれないのではないだろうか。いま大人であるわたし達は、すべての戦争は「悪」だろうと考えるにいたっている。しかし、それは、いまやどこにも十歳の子どもなど、いない、という苦い明察と裏腹である。国民国家の消滅を眼で追いながら、しかし手は汚れたまま、これまでのツケを返済しつつ事にあたる、これが起点に「汚れ」をもつ、わたし達の姿勢だろうというのが、わたしの考えなのである。
(加藤典洋『敗戦後論』「敗戦後論」 講談社、1997年 : 「敗戦後論」初出 『群像』95年1月号)
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