2019年6月16日日曜日

引用ノック1007:

〔……〕ヤスパースは、(核をもつ)ソ連の全体主義を打破するためには、核の使用は許容されうるばあいがある、といっているのです。
 ヤスパースの主張と、「日本のわれわれ」の「心情と論理」とのこの大きな違いについて、日本のヤスパース研究者の方々がどれくらい、立ち止まり、検討を加えられているのかを、私は寡聞にして、知りません。しかし、いま、私たちがヤスパースについて考えるなら、この点の考究は避けて通れないところです。なぜ、このような違いが生まれるのか。(……)私のばあい、これを問い、とりあえずたどりついた彼我の分岐点が、日本の戦争体験のたまたま「生き残った」という原点とヤスパースの「生への決意性」という戦後の起点の違いだったということです。
(中略)
 (……)同じく、道徳上の罪は、主に自分の良心との関係から生じます。というか、それとの相互性のうちにささえられています。例を出せば、そのため、たとえば、殺人を犯した『罪と罰』のラスコーリニコフは、自分の老婆殺しはけっして「罪」ではないと自分の「良心」に照らして確信し、殺害を決行するのですが、母からの手紙を読み、肉親に接するうち、自分がもはや、以前のように彼らとのんびり、くつろいで話すということは永遠にできない、という直覚に襲われて、慄然とします。そして、苦しくなる。その果てに、その確信の崩壊に直面せざるをえなくなるのです。
 これに対し、形而上的な罪は、人間の関係が「きわめて緊密な人間的結合」を見せるばあいに、生じる、といわれています。では、ここにいう、人間としての連帯性(the solidarity of all men)、公民(fellow-citizens)としての連帯性、より狭いグループ(smaller groups)と異なる、「緊密な人間的結合(the closest human ties)」に基づく連帯性とは、何なのでしょうか。それを私は、あるできごとのなかでたまたま生じる絶対的な関係性から生まれる連帯性、つまりたまたま「居合わせる」という、偶然が作り出す絶対的な連帯性──偶有的であるために絶対的でもある人間間のつながり──と定義してみたいのです。

(加藤典洋『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』「戦争体験と「破れ目」」 幻戯書房、2017年)

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