2019年8月1日木曜日

引用ノック1017:

 解剖学者の三木茂夫によると、人間のなかには植物の生と動物の生とがあるという。園人間の身体をなす二重性が、ここにいうゾーエーとしての生とビオスとしての生の二階層構造としての人間──アリストテレスはこれを「政治的な・生き物」と呼ぶ──の基礎である。
 三木によれば、人体の働きは、植物的で不随意的な内臓系と、動物的で随意的な体壁系に分かれる。内臓系は、心臓など血管系、食堂、胃や大腸などの腸管系、腎臓などの腎管系からなり、夜眠っている間も不断に働くことをやめない。体壁系はこれに対し、脳から脊髄(せきずい)にいたる神経系、筋肉系、そして皮膚の外皮系からなり、人間の意思を形成し、意思に従って動き、可感である。むろんこれは人間に限ったことではない。生物体に普遍の構造であり、魚を解剖すると、

 頭部では、この内臓と体壁は堅く嚙み合って分離が難しく、尾部では、内臓が消失して体壁だけとなってくるが、中間の胴部では、この両者は截然(さいぜん/せつぜん)と「腹─背」にその居を分つ。(「南と北の生物学」『海・呼吸・古代形象』一三七頁)

 三木は、「鯉こく」の輪切りを例に取り、この腹と背の分かれ方を説明する。「鰹ぶし」では「まずこの体壁を左右の半身に、次いで各々を背半と腹半の計四枚におろして造る」。(……)こちらでは間をアバラ骨が走っているが、食肉のばあい、この「腹背」の筋肉が「バラ肉とロース肉」になる。
 私たちは古来、この二つの区別を「おなか」と「背」として意識してきた。「背に腹は代えられぬ」とは、この区別の実感を述べたものだ。「思う」という漢字が「田」と「心」からできているのも、このことを指す。この漢字の「上半分(田──引用者)は脳を上から眺めたところ、下半分(心──引用者)は心臓のかたちで、これは“あたま”が“こころ”の声に耳を傾けているところを象(かたど)ったもの とも、語られている。(同前、一二四頁)。
 三木によれば、私たちが心と呼ぶものの出所は、内臓系である。(……)ところで、彼の解剖学的人間論で私たちの関心と響きあうのは、そもそもが西洋の解剖学的見地からも影響を受けたものでありながら、そこでの脳を中心とした体壁系つまりビオスと、内臓系つまりゾーエーに対する評価軸が、これまで見てきた西洋系の考え方を逆転したものとなっている点である。

(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』「12 リスクと贈与とよわい欲望」「ビシャから三木へ」 新潮社、2014年)

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