1 デカルトが「方法的懐疑」で示した原理、つまり、<主観>は自分の外に出て<主観>と<客観>の「一致」を確かめることができない、という原理を守ること。こうしてフッサールは、認識論上の問題を解くためには<主観/客観>の「一致」を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ<主観>の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の核心がある、と主張するのである。
2 すると、問題なのは主─客の「一致」を確証することではなく(それは原理的に不可能であるから)、これが現実であることは「疑えない」という確信(フッサールはこれを「妥当」と呼ぶ)がどのように生じるのか、という<主観>の中での確信の条件をつきとめることにある。
(中略)
しかしこの「疑いえないもの」の確信は、単なる思い込み(ドクサ)であってはならない。<主観>の内から現われ、しかも<主観>の恣意的な思いなしを超えて、どうしても現実の実在<主観>を説きふせるもの、これだけが人間に「客観」が存在するという確信(妥当)を与えるのである。
(後略)
(竹田青嗣『現象学入門』「第二章 現象学的「還元」について 2 「還元」の意味……「確信」の生じる条件」 NHKブックス、1995年)
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cf. 『はじめての現象学』
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