悲しいことに、たいていの場合、栄光は欲心の女衒であった。そしてその欲心が、このいやしい欲心が、われわれを破滅させたのである。わが民族はゲーラ・ジュンケイロの『祖国』という壮大な詩の中でポルトガル国民が歌っている言葉をわが言葉とすることができる。
われは新しき世界を、新しき生の空間を見たりされどそは、より大いなる知識、崇敬のためならずすさまじき強欲わが歩みを囲繞[いじょう]し、執念深き誇りわが両眼を満たし、しかりわが両眼を狂おしく照らせり。汝殺人者の血よ、汝は幾先年にわたる涙をもってしても洗いおとされることはなかろう! …ゴルゴダの十字架は鉄と変わり、わが英雄の剣は死の十字架に、しかりわれらの生命のために神が降し給うた十字架は鉄と変われり。汝は人々の生命を枯らして非人間的、かたくななものとなし、帝国を起こして東国を征服せり、されど神は怒り給いて……すべては空し……[第二十三景]
(中略)
古(いにしえ)のビスカヤ人の粗野な性格、
げにそこから、
発見されしあらゆる国々に
気高さが広がれり。
「私が騎士でないというのか」、侮辱を受けたビスカヤ人が正当にもそう答えた。かくして二人のドン・キホーテが相まみえたのである。だからこそセルバンテスは、われわれにこの事件を物語るに際してかくまで冗漫なのだ。
ビスカヤ人の挑戦を受けたラ・マンチャの男は槍を投げ出して剣を抜きはなち、円楯に腕を通して突進して行った。
(ミゲル・デ・ウナムーノ『ドン・キホーテとサンチョの生涯』「第1部 第8章」(ウナムーノ著作集2) 法政大学出版局、1972年 アンセルモ・マタイス 佐々木孝 共訳)
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