2016年1月3日日曜日

今日の一冊02:夏目漱石『こころ』

夏目漱石『こころ』、あの先生からの手紙はいくらなんでも長すぎだ、封筒に入っていたら数百枚分あるぞという突っ込みは昔からされているようで。
 一説ですが。『こころ』の次の新聞連載に内定していた島崎藤村が大規模の遅延を発生させ、連載中の漱石氏がこれに応じて作中の手紙も長くなっていったという背景があったとか。《社会人としてはダメだが、小説家(芸術家)としては真っ当な行為だ》という旨の弁護があったらしいので、夏目先生も剛毅すな。

 ま、しかし、いかにも読む気しない小説ですなー。辛気くさい物語だし。構造は凝ってるけどプロットも地味ですし。
 が、大勢に便乗してお気楽に酷評しても大丈夫だろう見たような風潮に反発する気持があり。ソリッドな読みを提示できればと。

 読みはすごく簡潔で(以下ネタバレあり)、Kのまき散らした血は、「先生」にかかっていない。
私は日中の光で明らかにその迹(あと)を再び眺めました。そうして人間の血の勢というものの劇(はげ)しいのに驚きました。 奥さんと私は出来るだけの手際と工夫を用いて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸い彼の布団に吸収されてしまったので、畳はそれ程汚れないで済みましたから、後始末はまだ楽でした。二人は彼の死骸(しがい)を私の室に入れて、不断の通り寐ている体(てい)に横にしました。」(2016.1.14追加)
その経験を深く受け取った「先生」が、小説の最終部に若い主人公に預けた手紙で、あえて血を飛び散らせる。


「同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていた所為(せい)でもありましょうが、私の観察は寧(むし)ろ簡単でしかも直線的でした。Kは正(まさ)しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向って見ると、そう容易(たやす)くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、──それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋(さむ)しくって仕方がなくなった結果、急に所決(しょけつ)したのではなかろうかと疑がい出しました。」(2016.1.14追加)


「私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜(すす)ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。それで他日を約して、あなたの要求を斥(しり)ぞけてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。(2016.1.14追加)

 それでなにかを伝承し託すという見立ては堅実かな、と。

 ひたすら印隠滅滅としている閉塞感たっぷりと思われていた物語が、実は「俺の屍を越えてゆけ」的な継承と熱血の物語でしたよと。この読みは当時若干二十歳位の友人から聞いたんですが、不意をつかれると同時に心地よかったのをおぼえてます。

 いい小説ほど、肝のところをさりげなく描いたり黙示的に表現したりするので、(よくない映画ほど台詞で全てを説明しようとするのと相似と推すんですが、)まあ大概小説しかも中長篇というのは時間かかるうえにそんなわかりづらいのでは、(すくなくとも当世においては)意地悪に感じられる分野になっているのは事実でしょうか。
 保守的と目されているジャンルも当然玉石混交で、古典級ならだいたい安定して全然現役で戦える筈なのに、よい紹介者がいないことで埋没死蔵してる(されてる)作品の多さ、鉱脈放置的にみえ、中間的な立場からもったいないな、と感じます。今回はババア気分で一握りの砂をふっ掛けたに終わりましたが、徐々に投擲物を石や岩に接近してゆければと。

 次回はカミュ『ペスト』の予定です。『異邦人』と星新一の二篇も併せて、何がしかの読みを取り出したく思っていますが、果たしてどうなりますか。以上、今回は『こころ』でした。

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