日暮れに次から次へとしぼんで行く花をよく見給え。何か不気味な感じが身に迫ってくるだろう。この感じはまっくらな夢のような、しかも土と結びついた現存在を怖れる謎のような不安である。黙っている森や草原、あの藪、この蔓は動きはしない。こういうものを弄んでいるものは風である。ところがただ小さな虫内(あぶ[以下、虻])だけが自由である。虻は夕暮れの光のなかにまだ飛んでいる。それはどこでも自分の好きな方に動いて行く。
植物はそれだけでは何者でもない。植物は偶然にも根を張らなければならなくなった土地の一部なのである。(中略)
しかし動物は選択することができる。(……)まだ路ばたに躍っている虻の群、夕方のなかをとぶ一羽の鳥、巣に忍び寄る一匹の狐、──これらはそれ自身他の大きな世界のなかにある小世界である。肉眼には見えないが、水の滴のなかに一瞬の生命を保ち、この小さな水滴の一隅を舞台とする滴(てき)虫。──それは全宇宙に対して自由であり、独立している。この水滴をその葉に宿している大きな樫(かし)の木はそうでない。
(……)ただ植物だけは、そのままで全体である。動物の本質のなかには分裂的なものがある。植物は植物に過ぎないが、動物は動物であり、なおその上に何物かである。(後略)
(O.シュペングラー『西洋の没落 第二巻』「第一章 起源とと土地と」「Ⅰ 宇宙的なものと小宇宙と」 村松正俊訳、五月書房、1989年)
(太字部、原典では傍点)
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