2015年4月13日月曜日

引用ノック0722:

 ここまで混乱させれば明らかだとは思いますが、本を書くという行為の中で、その著者が自分の主観を少しばかり遠慮させただけですべてはとりとめがなく分りにくくなるのです。
(中略)
 そういう訳でとりあえずこの本の著者である”私”は、とりあえず この本を成立させる為にとりあえず私の主観というものを色濃く打ち出すことにしました。どうも、客観的ってヤツをやると話がまだるっこくていけねェ、なんてことも言います。
 そもそも本などというものは著者の主観というものが色濃く強く打ち出されているところに意味があるのですが、そういうことをやっていると不思議がられるだけが現代だったりするのは何故なんでしょう? なんていうことは考えるのはやめにします。他人の主観の存在を不思議がっているような人間は、人間をやめちまえばいいので、ホントに、そういう”人間もどき”を”人間”の内には入れないでほしいと思いますが、これも勿論”主観”です。

(橋本治『革命的半ズボン主義宣言』「混沌篇:とりとめもなく現在は流れる。」「大人と子ども ‐ 自信のなさの研究」1984年、冬樹社)

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