それにしても、とオノレはいぶかる。おれには小説を書く想像力がまだ残っているだろうか。他人の文章を印刷してばかりいたために、おれは自分自身に書きたい気持ちがあるのかどうかすらわからなくなってしまった、と。(中略)「かなり以前のことですが、読者諸氏に己が凡庸さを手ひどく思い知らせまして、小生やむなく自ら忘れ去られる道を選びました。そこで今度は読者諸氏の味方について、文字の人たることを忘れ去る道を選んだわけです。文字の人が活字の人に道を譲った、とでも申しましょうか。」
だがじつは、印刷所の騒音地獄から抜け出したいま、彼は新たにこう思いはじめている。この世でいちばん気高い仕事とは、ひとり静かな書斎にこもって、白い紙を前にペンを取り、まだ見ぬ大勢の読者に胸躍らせて読んでもらえるような物語を紡ぎ出すことだと。
(アンリ・トロワイヤ『バルザック伝』「11 ある印刷所の誤算」尾河直哉訳)
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