こちらにUPしました。
→ http://2boy-yakyu.blogspot.jp/p/blog-page.html
古い順に、「パルプ・フィクション論」、「シンセミア論」、「バトル・ロワイアル論」です。
可能ならば(技術的に苦戦しなければ)明日中にやります。
「パルプ・フィクション論」は、タランティーノ(現役の映画監督で最も尊敬する人)の映画の作品論で、オーソドックスなスタイルの論文です。僕の処女論文(?)でもあります。
次の「シンセミア論」は、阿部和重の作家論という要素も多分にある、レジュメに毛が生えた程度の小論です。テーマソングはJAGATARAの「でも・デモ・DEMO」(タイトルうろ覚え)です。
最後の「バトル・ロワイアル論」は完全に作品論です。スタイルも従来の論文から逸脱しており、荒削りでぬるいところもあると思いますが、「完成度」よりも「可能性」を読んで頂けると幸いです。
これらの論に対する感想などを踏まえて、「ガンダム論(仮)」に取り掛かろうと思っています。
HPにファイルOR文章をぶじUPできたら、又ご連絡します。
追記:2013.7.12
ハイ/サブカルチャーを問わず、作品論や作家論そしてそれらとない交ぜになった時評・批評をやることに対し、特に震災後、ずっと違和感を抱いてきました。
端的にいうとアホくせーというか。
日本の批評の定位と編み変え、のようなことは、人によっては可能かもしれませんが、自分には当面難しかろう。
ということでげんざい方向模索中です。てか迷子中です。
すくなくとも芸術的表現行為に対する批評と社会への言及、このふたつの安易な接続に対してはとてもとても冷たい視線が待っている。
で、余程の無神経か孤絶した環境、或いはおめでたさを有していない限り、視線やその持ち主、彼らの意見や人となりは可視化されていると思うんですよね。
淡々と内輪で鍛錬しつつ、新機軸をみつけたいなと。
ボンヤリした結論ですが、嘘偽りのないところでもあります。
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