三六八
出遅れに発する過失あり。痛恨事になるかはまだわからない。挽回に向けて虎視眈々の心持。ワイは虎や。
後半ずぶい脚で二桁着順を回避したかしてないか、てな一日だったか。
若い頃チヤホヤされてた名残か、ひとが歩いている目の前に塞がってティッシュを渡してくる奴が駅前にいて、心乱れる。殺伐と怒気を発してやればよかった。ま、配った経験もあるからあれが心荒むのはわかる。が、マナー違反は連鎖するからさー。
冷静になると、そこでサッと差し障りなく注意するような台詞が思い浮かばない自分も経た年相応のものを身に着けてないとも思う。
それより、地下鉄のシートに座るなり「あーあ」とごちて舌打ちを繰り返す初老の男がいて、連動して横からも舌打ちが聞こえてきて、カエルの学校かな? と思いましたよ。明らかにこっちのが問題あるンゴねえ。不機嫌は仕方ないけどさ。酔っ払いならともかく。
唐突に、ネットに接続している時間を減らそう、さすがにもう2ミリ位はウキウキするような交流が日々の生活にあってもいい筈だ、と(『トレイン・スポッティング』で与太っていたマーク・レントンのごとく)燃え上がった訳であります。(完)
今日の随想:安易なジャンル批判
さいきん気になる作家が変わってきている。怨恨に由来するジャンル憎しはダルい。どんなジャンルであれ、ジャンルそのものを非難するような意見に優れたものは殆どない。
人が相手を憎んでいるとき、その相手に相応の知性も品格もないと想定する、だのなんだの今読んでいる本に書いてある。(あとで抜書いてここへ置く。→http://2boy-yakyu.blogspot.jp/2015/12/0811.html)
逆もあるか。対象に相応の知性や事情その他を認めないとき、憎んでいると。そういう憎しみの定義があってもいいのじゃあないか。言葉は蝶番ゆえ。
何が言いたいか。唐突だが”文学=太宰治=人間失格=ダサい”って論調、構図、ステレオタイプな見立てはほんと飽き飽きだ。目にするだけで嘔吐発動しそうになる。もう何から何までダメな意見なんだけど、理由の追加も面倒くさい程。百歩譲ってそういう意見があるとして、「誰が」「どういう動機で」そういった発言しているかが透けて見えて、ゲンナリするんすよ。誰だって、自分の好きなジャンルでそんなデタラメかまされたら烈火のごとく怒るでしょうよ。
『人間失格』はサービス過剰気味の太宰治がサービスを除去した、例外的な作品で、おそらくは同作家のファンの中でも好き嫌いが分かれているだろうし、開き直りやけくそで書かれたような部分もある。(準遺書なので。)(cf. 芥川龍之介「歯車」)前期中期後期で全然作風が違うのは音楽に置き換えれば理解しやすいでしょう。ある作家のある時期の超特例的な作品をあげて、それでジャンル全体をくさしたつもりの安易さ。
自分自身は、太宰治をそれほど好きではない。けど、戦時中に『お伽草紙』を書いたのはやはり殿堂入りクラスの凄みを感じる。現在偉いようなことになってるだけで、いまなめられたり蔑まれたりしているジャンル・勢と小説や文学も大差ないでしょうといわれたらそうだし、活力低下してるでしょうといわれたらそうだし、知的虚栄心メインで愛好してるファンが多いでしょうといわれたらそうだし。だけど。それが全部だといわれたらそりゃ怒る。
お相撲さんはデブか? 吉本隆明はブサイクか? それを笑うお前はアホか? 俺もバカか? 勢いで書かれたこのエントリがこのまま残る確率は二割あるのか? 炭谷銀次朗ははたして打撃覚醒したのか? 思いも尽きませんが時は有限なのでここまで。
今日の回顧:
おや、こんなツイートが
トリュフォーの『突然炎のごとく』観た。おフランスのオシャレ映画は腐って死ね、と思った。
— 坪井野球 (@2boy) 2007, 6月 21
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