リウーはその晩、グランの去って行く姿を眺めながら、突然、彼がいおうとしたことを理解した──彼はおそらく一冊の本か、あるいはそれに近い何かを書いているのだ。やっと試験所に着いて中へはいってからも、そのことがリウーの不安を静めていた。この感じがばかげていることは彼も知っていたが、しかし、結構な道楽にうちこんでいるつつましいお役人が見られるような市に、ペストが本当に腰を落ち着けようとは、どうも信じかねる気持ちだったのである。つまり、正確にいえば、ペストの最中にそういう道楽の余地など想像できなかったし、そこで、実際上、ペストはわが市民の間には将来性なしと判断したのであった。
(カミュ『ペスト』 宮崎嶺雄訳)
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