2014年5月15日木曜日

引用ノック0611:フランス小説の古典的伝統

伝えられるところによると、ルイ十六世がギロチンへと向う途上で、監視のひとりに王妃への伝言を託そうと思ったところ、こんな答えが返ってきたそうです──「私がここにいるのは、あなたの用足しをするためではありません、あなたを断頭台へと連れてゆくためなのです」。用語の的確さおよび職務への固執という点でまさにみごとな例であるこの返答は、わが国の小説文学の全体にとまでは言わずとも、すくなくとも、フランス小説のある種の古典的伝統に、完全に当てはまるもののようにぼくには思えるのです。フランス小説のある種の古典的伝統に属する作家たちは、作中人物の用足しをすることは拒む、作中人物たちを待ち受ける約束の場所へと、彼らを冷静沈着に送り届けること、それ以外に彼ら作家たちの関心はないように見えます。(中略)この作家たちにある固有なものはなにかといえば、それは企図の単一性なのであり、だからこれらの小説に、たとえばヴィルヘルム・マイスターのような果てしもない波瀾の偶発を求めてみてもはじまりません。(中略)
ところが、興味をそそられることに、『クレーヴの奥方』のような典型的十七世紀的小説の構成が弛んだものなのです。(中略)
古典主義的であるということは、同じことを繰り返して語るということです。(中略)
サドにおいては、正当なものとなった罪への固執、スタンダールにおいてはエネルギーへの連祷(れんとう)、人間の悲傷をこね直して、すみずみまで特権的な存在へとつくりあげるための、プルーストの英雄的なる苦行と、それぞれにちがうとはいえ、かれらはすべて、ただひとつのことしか語っていないし、それ以外のなにものも語りはしません。(中略)
こんにち、ひとりのフランス人が雄々しさというものをはっきりと頭に抱きうるとすれば(言うまでもなく、雄々しさとは太鼓の響きなど必要としないものです)、かれはたぶんその雄々しさの観念を、乾き、そして燃えあがるこの一連の作品から享(う)けたのです、──断頭台に至るまで、けっして気を失うことなく、理知の高次な行使が繰りひろげられ、理知は支配を達成するまではけっして停止することのない、この一連の作品から。

(カミュ「理知と断頭台」清水徹訳、新潮社『カミュ全集2』〔文芸評論、その他小品〕内収録)

0 件のコメント: