総じて、野蛮さと両義性、そして語り口が印象的に残った。
ここからネタバレします。
・野蛮さ
蛇足との評価もある、第二十四歌のなんとも微妙な終わり方。
オデュッセウスは故郷へ帰り、妻へ言い寄っていた若き名士たちを皆殺しにする。
この虐殺はじつに残酷で、『ヒストリエ』の作者が書いた『寄生獣』の殺戮シーンもかくや、という凄惨さなのだが、当然というべきか殺戮された側の親族が殴り込みをオデュッセウス達にかける。主人公の父ラウルテスの放った矢が、カチコミ集団の統率者であるところのアンティノウスの父親の頭部を貫き、そこへ守護神のアテナがもうやめましょう、と仲裁して終わる。
この一連の事態。人間に火という知恵を調達したプロメテウスが、ゼウス神の怒りを買って毎日鷲に肝を喰らわれるという罰に苛まれていた所へ、鷲をヘラクレスが射殺、ゼウスとプロメテウスが和解するというエピソードが似ている。
和平で終わるところが富野御大の代表作を思わせる。が、それはそれとして、善悪のハッキリしない、もやっと終わるところが、一神教の物語と一線を画すな、と。
構図としては『忠臣蔵』に似たテイストなんだけど、『オデュッセイア』は明らかに主人公サイドのやりすぎ感が強調されてるんですよ。少なくともそう読めるように書いてる。
古い時代の話という事もあり略奪がデフォルトなのはよしとして、大虐殺されてる側は、まあ悪徳の輩なんでしょうが、特にひとを殺めたりはしておらず。一方堅忍不抜のオデュッセウスは地道に働くことはせず、困ったら戦争か、共同体を襲撃して収奪を生業としている。
ここからは強引な推論ですが、そもそも松明のような光を放つ頭部の乞食が、偶々オデュッセウスの秘密を嗅ぎ付けたその辺の口が異様に上手いちんぴらかもしれない。あるいはオデュッセウスと昵懇にしていた戦友である可能性も否定できない。貞淑な妻も薄々他人とわかりつつ寸劇を展開して不逞の輩を全員ブチ殺したと思われる節も(原事実においては)なくはないというか、ありうる線だな、と。
いずれにせよ、農業や牧畜等々、堅気な仕事をせずにひとの財産にたかるという点で、誅殺される求婚者たちも、乞食も、英雄オデュッセウスもたいして変わらない。
というような、一種、醒めた物の見方が第二十四歌の存在している理由(のひとつ)ではないか、と多神教的世界観とともに感得される。
(2014.3.2 加筆:アポロドートス『ギリシア神話』には、オデュッセウスが妻の不義を咎めてぶち殺すという異説が挙げられている。なんとも凄まじい。また、同著では大虐殺の犠牲者側の名前が列挙されているので、リアリティとともに喚起される感情がひとによってはあるかもしれない。んなもん、不在にしてたんだから誰がどこまで悪いとか判らんでしょうに。)
・両義性
人に長たるエウマイオス→独身でうだつのあがらない、老いた豚飼い。堅忍不抜のオデュッセイア→血の気が多くて最終的には与太たちの皆殺し(女含む)を問答無用で敢行。など、形容詞のミニマルで皮肉なユーモアに富んだ使い方が大きな特徴。ゲシュタルト崩壊と言葉の多義性を体験させてくれる。
加えて、ラストシーンの女神による仲裁が長続きせずに、ポリュペモスに発するポセイドン(ポセイダオン)の呪いが持続し、故郷イタケをあとにして再び主人公が旅に出る、というルートへの伏線も張られていると見ることは、一定の妥当性があるだろう。呪いはかくかくしかじかの行為によって解かれるよ、という予言がひとつふたつ或いはみっつある。
いずれにせよ、第二十三歌のハッピーエンドを待望するような単一的で勧善懲悪な価値観からは距離のある物語であることが重要であり、(古典でありながら)存外知られていない、というのが自分の意見。一般的にはヒーローの漂流譚と認識されており、仇敵の殺戮もあまり知られていないのでは。特に日本では。
この辺の古典をふまえると、『指輪物語』の余韻と思われた最終盤部分だったり、『海のトリトン』だったりを、もう少し深く捉えることがし易いかも。
『指輪物語』が「”一つの指環”の魔的な魅力に抗して捨てる冒険」という構えになっているのは興味深い。
・語り口
豚飼いエウマイオスと、たしか一子テレマコスに話しかける(イリアスではメネラオスとパトロクロス)。これは村上春樹『海辺のカフカ』の「君は」という話しかけと似ている。また、ゲームブック(ゲームノベル)にも。
ホメロス自身が前面に出て語ることは無い。ということでたとえばヘシオドス『神統記』、あるいは近代ヨーロッパ小説や日本の私小説と対照的。といえるか。
敷衍して、作者の価値判断が一意に示されることも控えめ。というかほぼ無い。
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