2019年10月11日金曜日

引用ノック1036


 「ああ。なあ、もしお前にとくにどこかに行く予定がないとしたらだな、俺にお前のあの千鳥格子(ハウンドトウース)の上着を貸してくれないか?」
(中略)
 「時刻はまだ早かった。何時かはわからないけど、まだそんなに遅くはなってないはずだ。」
(中略)
 ちょっと前まで雪が降っていたなんてまったく嘘みたいだった。歩道にはもうほとんど雪は残っていなかった。でも凍りつくように寒かった。それで僕は赤いハンティング帽をポケットから出してかぶった。見かけなんてもうどうでもいい。
(中略)
 僕は日曜日でも開いているレコード店をどこかでみつけて、このレコードを買い、それを持って公園へ行くつもりだった。日曜日だったし、フィービーは日曜日になるとしょっちゅう公園に来てローラースケートで遊んでいたからだ。だいたいどのへんにいるかもわかっていた。
 前の日みたいなとてつもない寒さじゃなかったにせよ、太陽はやはり姿を隠していたし、絶好の散歩日和ってわけでもなかった。でもひとつ愉快なことがあった。ついさっきどこかの教会から出てきたばかりとおぼしき一家が、僕のすぐ前を歩いていた。父親と母親と六歳くらいの男の子。彼らはどっちかというと貧しそうに見えた。父親は貧乏な人がシャープに見せたいときによくかぶるようなパール・グレイの帽子をかぶっていた。(……)そういうのって小さな子どもがよくやるじゃないか。そしてそのあいだずっと唄を歌ったり、ハミングをしたりしているんだ。何を歌っているのか知りたくて、僕はその子の近くに寄ってみた。その子の歌っているのは、「ライ麦畑にやってくる誰かさんを、誰かさんがつかまえたら( If a body catch a body coming through the rye)」という唄だった。(……)でも両親は子どもにはまったく注意を払っていなかった。そして子どもは歩道の縁に沿って歩きながら、「ライ麦畑をやってくる誰かさんを、誰かさんがつかまえたら」と歌い続けていた。それを聴いていると気持ちが晴れてきた。僕はもうそれほど落ち込んでいなかった。
(中略)
 でも君はキャンディーやガムなんかをたっぷりと持っているから、場内には甘い香りがぷんと漂うことになる。まるで、外では雨が降っています、というような匂いがした。たとえ実際には降っていなくてもね。で、この世界中で唯一(ゆいいつ)、僕らの今いる場所だけが、からっと乾いて居心地がよくてなごめる場所なんだ、みたいな。僕はその博物館がなにせ好きなんだ。
(……)カヌーの最後尾にはすごく気色(きしょく)の悪いやつがいる。仮面なんかつけてさ。呪(まじな)い師なんだよ。こいつにはぞっとさせられたけど、にもかかわらず僕はこいつのことが好きなんだ。
(中略)
 彼は腕時計に目をやった。そして「行かなくちゃ」と言って立ち上がった。「それじゃ、また」。
(中略)
 彼は僕が貸したタートルネックのセーターを着ていた。そのときジェームズの部屋にいた連中は、放校処分にされただけだった。監獄にも入らなかった。
(中略)
 たしかにフィービーの言ったことが正しい。本当は「誰かさんが誰かさんとライ麦畑で出会ったら」なんだ。でもそのときは知らなかった。
 「てっきり、『誰かさんが誰かさんをライ麦畑でつかまえたら』だと思ってたよ」と僕は言った。
(中略)
 「もう行こうぜ」とその子は兄貴に言った。「俺はもう見ちまったよ。なあ、もう帰ろうよ」、それからその子はぱっと身を翻して逃げていった。
 「まったく、とことん肝っ玉の小せえやつだな」ともう一人は言った。「じゃあな!」と彼は言うと、あとを追って行ってしまった。
(中略)
 フィービーときたら、やれやれ、僕とは反対側の歩道を動物園に向かって歩いていた。

(J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 村上春樹訳 白水社、2003年:  ”The Catcher In The Rye” 1951)

0 件のコメント: