(……)それと同時に、白い瀬戸張のなかで、大きくなったり小さくなったりする不定な渦が、妙に彼を刺戟した。
あたりは静かであった。膳に向った時下女の云った通りであった。というよりも事実は彼女の言葉を一々首肯うけがって、おおかたこのくらいだろうと暗に想像したよりも遥かに静かであった。客がどこにいるのかと怪しむどころではなく、人がどこにいるのかと疑いたくなるくらいであった。その静かさのうちに電灯は隈くまなく照り渡った。けれどもこれはただ光るだけで、音もしなければ、動きもしなかった。ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。渦らしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。
彼はすぐ水から視線を外した。すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼を据すえた。しかしそれは洗面所の横に懸けられた大きな鏡に映る自分の影像イメジに過ぎなかった。鏡は等身と云えないまでも大きかった。少くとも普通床屋に具えつけてあるものぐらいの尺はあった。そうして位地の都合上、やはり床屋のそれのごとくに直立していた。したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。湯上りの彼の血色はむしろ蒼かった。彼にはその意味が解せなかった。久しく刈込を怠った髪は乱れたままで頭に生い被かぶさっていた。風呂で濡らしたばかりの色が漆のように光った。なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。
(夏目漱石『明暗』 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/782_14969.html )
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