2018年8月22日水曜日

引用ノック0970:

これらの経験はこの空想的な老学者に次のようなことを考えさせた。いったい野球その他のスポーツがどうしてこれほどまでに人の心を捕えるのであろうか。
野球もやはりヒットの遊戯の一つである。射的でも玉突きでも同様に二つの物体の描く四次元の「世界線」が互いに切り合うか切り合わぬかが主要な問題である。射的では的が三次元的空間に静止しているが野球では的が動いているだけに事がらが複雑である。糊べらで飛んでいる蠅をはたき落とす芸術とこの点では共通である。
近ごろボルンが新しい統計学的基礎を論じた中に、ウィルヘルム・テルがむすこの頭上のりんごを射落とす話を引き合いにだした。昔の物理学者らが一名を電子と称するテルの矢のねらいは熟練と注意とによって無限に精確になりうると考えたに反して、新しい物理学者は到底越え難いある「不確定」の限界を認容することになった。いわば昔はただ主観の不確定性だけを認めて客観の絶対確定性を信じていたのが今では不確定性を客観的実在の世界へ転籍させた。この考えの根本的な変遷はいわゆる「因果律」の概念にもまた根本的の変化を要求する。しかしそれは単に原子電子の世界に関することばかりでなく、これらの原子電子から構成されている全ての世界における因果関係に対する考え方の立て直しを啓示するように見える。

いかに現在の計画を精鋭にゆきわたらせることができたとしても、過去と未来には末広がりに朦朧たる不明の笹縁(ささべり)がつきまとってくる。(……)
こういう漠然たる空想をどこまでもたどりたどって行った末に、彼は、確定と偶然との相争うヒットの遊戯が何ゆえに人間の心をこれほどまでに強く引きつけるかという理由をおぼろげながら感得することができるような気がした。(……)

(寺田寅彦「野球時代」)


『打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に』の結句『人の手の中に』はベースボール技術を写生したのであつた。『今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな』は、ベースといふ字をそのまま使つてをり、漫基(フルベース)の状態を歌つたもので、人をはらはらさせる状態を歌つてゐる。一小和歌といへども、ベースボールの歴史を顧れば感慨無量のものとなる。

(斎藤茂吉「子規と野球」)

(平出隆編『日本の名随筆 別館73 野球』 1997年、作品社)

0 件のコメント: