2017年9月22日金曜日

引用ノック0946:

壁のそれより上の部分は、『テレマコスの冒険』(訳注 フランスの十七世紀の作家フェヌロンが、ルイ十四世の孫ブルゴーニュ公の教育のために、ホメーロスの叙事詩に題材をとって書いた物語)の主な場面を描いたニス塗り壁紙を張り、そのなかの古典的人物たちに彩色を施してある。鉄格子をはめたふたつの窓の間の壁面は、ユリシーズの子テレマコスのために、カリプソが催した饗宴の図に当っている。(……)
(中略)
 このときヴォートランが姿を現わした。「ヴォケーおっかさん」と、微笑しながら彼は言った、「こわがらないでくださいよ、これから菩提樹の下でピストルをためし射ちするからね」
「ああ、ヴォートランさん」と、両手を合わせながらヴィクトリーヌが言った、「どうしてウージェーヌさんを殺そうとなさるんですの?」
 ヴォートランは二歩後退りして、ヴィクトリーヌに見入った。
「こりゃまた話が違ってきた」と、彼がからかうような声で叫んだので、哀れな娘は真っ赤になった。「なかなかいい青年ですな、え、ウージェーヌ君は?」と、彼は言葉をついだ。「おかけでいいことを思いついた。このわしがあんたたちふたりを幸せにしてあげよう、かわいいお嬢さん」
(中略)
ひとつ注目に値するのは、感情というもののもっている浸透力である。どんなに粗野な人間であれ、あるひとりの人間が強力で真実な感情を表現するやいなや、その人間から特殊な流体が発散されて、顔つきを変え、動作を生き生きとさせ、声に艶が出る。(……)いまこのとき、爺さんの声や身振りのなかには、偉大な俳優のしるしとなるあの伝達力があった。だがわれわれの美しい感情というのは、そもそも意志の詩ではないのか?
(中略)
一瞬にしてコランは、ただひとつの感情、すなわち悔恨の感情を除いて、あらゆる人間感情が描き出された地獄的な詩篇となった。彼の目つきは、転落してなお戦いを挑みつづける天使長の目つきだった。(……)
(……)
「諸君」と、コランは下宿人たちに向って言った。「おれはこれから引っぱっていかれる。あんた方はみんな、おれがここに住んでいた間とても親切にしてくれた。そのお礼を申上げたい。俺の別れの挨拶を受けてくだされ。プロヴァンス地方の無花果(訳注 コランはトゥーロンの監獄から脱走したので、原則としてトゥーロンへ連れ戻されるはずである。しかし実際はロ・ロッシェルの監獄に投獄され、またもや脱走する。『浮かれ女盛衰記』参照)をお送りするが受けていただけるかな?」彼は数歩歩きだしたが、振向いてラスティニャックの顔を見つめた。「あばよ、ウージェーヌ君」と彼は、それまでの演説のぶきらっぽうな調子と奇妙な対照をなす、優しくもの悲しい声で言った。「困ったときのために、忠実な友人を君に残しておいてやったからね」(……)
「いやな目に会ったら、こいつに頼むんだな。人間だって金だって、君の好きなようになる」
(中略)
 彼はまたとない侘しい、気のめいるような物思いにふけりながら、着がえをしに行った。彼の目には世間というものが、いったん足を突っこむとずるずると首までもぐってしまう、泥の海のように映るのだった。(……)
(後略)

(バルザック『ゴリオ爺さん』 平岡篤頼訳 新潮文庫、1972年 (改版 2005年))

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