2017年8月8日火曜日

引用ノック940:

タルーは、次に、彼の部屋の窓と向い合ったバルコニーでしばしば展開される一つの光景から、好ましい感銘を受けたようである。彼の部屋は、そういえば一つの小さな横町に面していたが、そこではよく家々の壁の陰で猫が眠っていた。ところが、毎日、昼食のあと、町じゅうが炎熱のなかで半ば眠っている時刻になると、通りの向う側のバルコニーに一人の小柄な老人が姿を現わすのであった。白髪を綺麗になでつけ、軍服仕立ての服をきちんといかめしく着込んだ老人は、「ニャオ、ニャオ」と、よそよそしいと同時にまたやさしい呼び声で猫を呼ぶ。猫はぼんやり眠そうな眼をあげるが、まだ体を動かそうとはしない。老人のほうでは小さな紙きれを通りの上でちぎってみせると、猫どもはこの白い蝶々の雨に引き寄せられて、最後の紙片のほうへ躊いがちな足を伸ばしながら、道路の真ん中へ進み出る。小柄な老人は、そのとき、猫をめがけて、力をこめ、正確にねらいをつけて唾を飛ばす。飛ばした唾がうまく的に当ると、笑い声を立てるのであった。
(……)
「今日、向いの小柄な老人は困惑の体である。もう猫がいないのである。事実、かれらは街々におびただしく発見される死んだ鼠に刺激されて、姿を隠してしまった。(……)いつもほど髪もきちんとしていなくて、矍鑠たる感じもない。いかにも不安そうな様子である。しばらくして、彼はなかへ引っ込んだ。しかし、一回だけ、むなしく空中に唾を飛ばして行った。

(カミュ『ペスト』 宮崎嶺雄訳 新潮文庫、1969年(2004年改版))

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