しかしこの詩がこれまで生命を保ち、これからも生命を保つであろう所以は、それが背後を確保しながら前方を指し示した点にある。中世の廃墟にギリシャ語のアルファベットが埋もれていたとき、この詩は世界にホメーロスの息吹きを伝えた。
(後略)
(ルードルフ・ボルヒァルト「ウェルギリウス」 松浦憲作訳)
しかし未来でさえもすでにわれわれのものではない。数十年もたてば、われわれも、過ぎ去った世紀の人間、という残酷な呼び名で呼ばれるようになろう。われわれの世代が持っていたのは、未来を歌う唄だけだ。だが、その唄が、今日のダイナミズムからすでに文学史上の事実に移ってしまった。(後略)
(ロマン・オシッポヴィッチ・ヤコブソン「自分たちの詩人を失ってしまった世代について」 北岡誠司訳)
だがそれには、私がはじめに言ったように、われわれがしっかりと眼を見開いて生き、獲得した物すべてを堅持して利用し、時期が来る前に参与したりしないという条件が課されるであろう。用心深くするだけのことはあるのだ。命運が賭けられているのは高度な人間的利害であって、卑小な野心ではないからだ。(……)表現の便宜上から歴史のなかでアメリカ的と呼ばれうるものが現れてくるのは、われわれの、というよりもむしろわれわれの後継者たちの努力にかかっている。重要なのは待つことができることだ。「待つ人間であること」とグラシアン〔一六〇一─一六五八、スペインの著述家〕は言った。それ以外のことはわれわれをどこへ導くだろうか? (後略)
(アルフォンソ・レイエス「ウェルギリウスをめぐって」 桑名一博訳)
われわれは全体的人間として風景──自然のであれ、人工的なものであれ──の前に立つ。われわれに風景をつくり出す活動は直接に見かつ感じる活動であって、これは事後の反省においてはじめてそのそれぞれに分離される。(後略)
(ゲオルグ・ジンメル「風景の哲学」 生松敬三訳)
(『世界批評大系 3 詩論の展開』 筑摩書房)
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