2016年4月14日木曜日

引用ノック0849:

「どんな具合です、女騎手の君は?」と、タルーは尋ねることがあった。すると、グランはいつもきまりきって、「いや、駆けてますよ、駆けてね」と、気むずかしげな微笑を浮べながら答えるのであった。ある晩、グランがいうには、彼はその女騎手のために《端麗な》という形容詞を決定的に放棄し、今後はそれを《なよやかな》と形容することにした。「そのほうがもっと具体的ですから」と、彼は付け加えた。(……)
ある晩彼は意気揚々として、《漆黒の栗毛の牝馬》という言葉を見つけたと報告した。漆黒というのは、これも相変らず彼の説で、端麗なものをそれとなく指し示しているのであった。
「そんなことはありえないな」と、リウーはいった。
「それはどうしてです?」
「栗毛っていうのは馬の種類じゃなく、色を指すんですからね」
「どんな色です?」
「どんな色って、黒とは全然違う色ですよ、とにかく」
グランは非常に気を落した様子であった。(……)
「どう思います、《悠揚たる》っていうのは?」と、タルーがいった。
 グランはその顔を見つめた。彼は思案していた──
「そうだ」と、彼はいった。「それがいい」
 すると、ほほえみが次第に彼の顔に浮んでくるのであった。
(中略)
「人間は観念じゃないですよ、ランベール君」(……)
「[……]──今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」
(中略)
「それはわかります」と、パヌルーはつぶやいた。「まったく憤りたくなるようなことです。しかし、それはつまり、それがわれわれの尺度を越えたことだからです。しかし、おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」
(……)「僕は愛というものをもっと違ったふうに考えています。そうして、子供たちが責めさいなまれるように作られたこの世界を愛することなどは、死んでも肯んじません」
 パヌルーの顔を、一抹惑乱したような影がかすめた。
「ほんとにリウーさん」と、哀しげに彼はつぶやいた。「私には今やっとわかりました、恩寵といわれているのはどういうことか」
しかし、リウーはまたベンチの上にぐったり身を投げ出した。またもどって来た疲労の底から、前より柔らげた調子で、こう答えた──
「それは僕にはないものです、確かに。しかし、僕はそんなことをあなたと議論したいとは思いません。われわれは一緒に働いているんです、冒瀆や祈禱を越えてわれわれを結びつける何ものかのために。それだけが重要な点です」(……)
「そら、このとおり」と、パヌルーの顔を見ないようにしながら、彼はいった。「神さえも、今ではわれわれを引き離すことはできないんです」
(中略)
「そうでさ」と、爺さんはいった。「まあ、上ってみなさい。あすこへ出ると、いい風ですぜ」
 行ってみると、テラスはからっぽで、椅子が三つ備えつけてあった。(……)「いい気持ちだな」と、腰を下ろしながら、リウーはいった。「まるで、なんだね、ペストもここまでは上って来なかったみたいだな」
 タルーは彼に背を向けて、海をながめていた。
「うん」と、ちょっとたってからタルーはいった。「いい気持ちだね」
(……)
「もちろん、第三の範疇──つまり、本当の医師という範疇が、当然あっていいだろうが、しかし事実として、そういうのには多くは出くわさないし、まず困難なことというものだろう。まあ、そういうわけで、僕は、災害を限定するように、あらゆる場合に犠牲者の側に立つことにきめたのだ。彼らのなかにいれば、僕はともかく捜し求めることはできるわけだ──どうすれば第三の範疇に、つまり心の平和に到達できるかということをね」
 (……)ちょっと沈黙があった後、リウーは少し身を起し、そして心の平和に到達するためにとるべき道について、タルーには何かはっきりした考えがあるか、と尋ねた。
「あるね。共感ということだ」
 救急車のベルが二度、遠くのほうで鳴り響いた。(……)「[……]聖者なんていうものよりも。僕にはどうもヒロイズムや聖者の徳などというものを望む気持ちはないと思う。僕が心をひかれるのは、人間であるということだ」
「そうさ、僕たちは同じものを求めているんだ。しかし僕のほうが野心は小さいね」
 リウーはタルーが冗談をいっているのだと思って、その顔をながめた。ところが空から来るおぼろな光のなかで、見るとその顔は悲しげでまじめであった。風がまた起り、リウーはそれを肌になま温かく感じた。タルーは体を揺すぶった──
「ひとつ、どうだ」と、彼はいった。「友情の記念に、いいことをしようか?」
「海水浴をやるのさ。未来の聖者にしたって、こいつは恥ずかしくない楽しみだ」
 リウーはほほえんだ。
「通行証があれば、突堤の上まで行けるわけだ。せんじつめてみれば、あんまり気のきかない話だからね、ペストのなかでばかり暮してるなんて。もちろん、人間は犠牲者たちのために戦わなきゃならんさ。しかし、それ以外の面でなんにも愛さなくなったら、戦ってることが一体なんの役に立つんだい?」
「よかろう」リウーはいった。「さあ、出かけよう」
(……)
 再び服を着てしまうと、二人は一言も発することなく帰途についた。しかし、二人は同じような気持ちをいだいていたし、この夜の思い出は二人にとって快い思い出であった。遠くからペストの哨兵の姿を認めたとき、リウーは、タルーもまた彼と同様に、こう心につぶやいていることを知っていた──病疫も今しがたは彼らを忘れていたし、それはいいことだった。そして今や再びはじめねばならぬと。
(中略)
事実、間違いがあったわけで、リウーはいささか憤慨した。しかし、オトン氏は、やつれた様子で、力なげに手をあげ、重い口ぶりで一語一語話しながら、誰だって間違うことはあるものだ、といった。リウーは、ふと、どこか前と変ったところがあると思った。
「これからどうされます、判事さん? きっと書類が待ちかまえているんでしょうね」と、リウーはいった。
「それがね、そうじゃないんです」と、判事はいった。「私は休暇をとろうと思っています」
「なるほど、休息なさる必要がありますね」
「そうじゃないんです。また収容所に帰りたいと思いましてね」
 リウーは驚いた顔をした──
「だって、あそこは出て来られたばかりじゃありませんか?」
「いや、私のいったのはそういう意味じゃないんです。話によると、あの収容所では、事務のほうに志願で働いている人がいるそうですね」
 判事はその丸い目をちょっとくりくりさせ、一方の髪の毛をしきりになでつけていた。
「まあ、とにかく、そうすれば私にも仕事ができるわけです。それに、愚かなことをいうようですが、あの子からも、そう離れちまわないような気がするでしょうし」
 リウーはその顔をながめた。このいかつい平板な目に突然優しさが宿るなどということは、ありえないことだった。しかし、その目はかき曇り、いつもの金属のような清澄さを失っていた。
(後略)

(カミュ『ペスト』 宮崎嶺雄訳 新潮文庫、1969年 改版 2004年; Camus"La Peste" 1947)

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