了解は、どのようにであれ企投された存在しうることのうちで実存することとして、第一次的には到来的である。しかし、もしも了解が時間的でなかったとすれば、言いかえれば、既在性と現在とによって等根源的に規定されていなかったとすれば、了解は時熟しないであろう。(……)決意性においては現在は、最も身近に配慮的に気遣われるもののなかへの気散じから連れもどされているばかりではなく、到来と既在性とのうちに保持されている。したがって本来的な現在を、われわれは瞬視と名づける。(後略)
(ハイデガー『存在と時間』「第二篇 現存在と時間性 第四章 時間性と日常性」;『中公バックス 世界の名著 74 ハイデガー』原佑・渡辺二郎訳 中央公論社、1980年)
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到来=未来
既在性=過去
了解≒人間の認識 か
(現存在=人間)
(瞬視≒現在・過去・未来の(有機的に)合体した時間(現在))
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