2015年10月17日土曜日

引用ノック0775:幸運児H

バルザックはベルニー夫人提供の現金で「ラ・フォンテーヌ」と「モリエール」を印刷した。ところが売れないことが分かつたので、元値の三分の一で急ぎ売り払つて再び現金を入手しようとした。さて現金どころか、またまた同じように売れもしない別の本をつかまされた。最初の反古紙のかわりに、恐らくその十分の一の値打しかない別の反古紙を手に入れたのだ。これは金を牝牛と、牝牛を山羊と、山羊を鵞鳥と、鵞鳥を水車の臼石と順々に取り換えた挙句、その石をザブンと落つことして無一物となつた、古いドイツの昔話にある幸運児ハンスの物語と同じである。
(中略)また職工と一しよになつて働いたり、高利貸と闘つたり、商人と必死になつて交渉したりしているうちに、浪漫的なもの、昂揚されたもの、壮大なものだけを求める偉大な同輩のヴィクトル・ユゴー、ラマルティーヌ、アルフレッド・ド・ミュッセなどよりもつと豊かな社会的関係、社会的対立の知識を獲得してしまつた。彼らとちがつて人生のケチ臭い残忍さ、いやしい醜悪さ、人間の隠れた力というようなものを見たり描いたりすることを学んだ。若い理想主義者の想像には、現実主義者の澄んだ眼と欺かれたものの懐疑が加わつた。もはやどんなに壮大なものも彼を威圧するわけにも行かず、どんな浪漫的緞帳も彼を欺くことはできないだろう。というのは借方を縛る縄とか逆に債権者の手からすり抜ける手段とかを見知つた彼は、社会というカラクリの奥の奥まで覗いてしまつたのだから。金はどんなふうにして出来たり消えてなくなつたりするか。訴訟や出世はどんなふうに行われるか。人はどんなふうに浪費したり貯蓄したりするか。どうやつて他人をだまし、どうやつて自分をあざむくか、彼には分かつた。(後略)

(ツヴァイク『バルザック』水野亮訳、早川書房)

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