2015年10月13日火曜日

引用ノック0774:(自省;定義)

(……)
 本書で私はアメリカの社会・文化のさまざまな側面──もっとも魅力的な側面とは言いがたい──を検討するための、たんにひとつの手段として、反知性主義という概念を使ったにすぎないということだ。資料的な裏づけはかなりおこなったものの、本書は正式の歴史書ではまったくなく、むしろ私の個人的な著作であり、とりあげた諸事実の詳細は、私の観点に沿って組み立てられ、またそれに支配されている。テーマ自体の発展のさせ方は、やや衝動的な選択と、そのときどきの要請にもとづいている。
(中略)
 今日のヨーロッパでは、反知性主義は一般に、まるでこの国を熟知した批判とでもいうふうに受け取られる。アメリカ人はこれほどみずからに誇りをもち、また過剰なほどの感受性をもつにもかかわらず、仮りに世界じゅうでもっともきびしく自己批判する人びとではないにしても、少なくとももっとも強い不安にみちた自意識をもっており、自分たちの欠点のあれやこれやについてつねに心配している──ひとつの国としての、倫理的ありかたや文化や決意について。まさにこの自己の頼りなさこそが、この国の知識人に特別に重要な批判的機能をあたえてきた。外国のイデオローグがアメリカ人の自己批判を、その本来の射程や意図を越えて不当にもちいる危険性は当然ありうる。しかし、みずからを正す、という健全な企図が他人に利用され、悪用されるからといってそれをしないことは、ひたすら貧弱な言い訳にしかならない。その意味で、私はエマーソンの精神を尊敬する。彼はこう言った。「正直に、事実を述べようではないか。わが国アメリカは皮相な国だといわれる。しかし偉大な人びと、偉大な国ぐにが、かつて法螺ふきや粗野な道化であったことはなく、彼らは人生における脅威を察知し、みずからを励ましてそれに直面してきた」。

リチャード・ホーフスタッター


(中略)
 反知性主義がこれまで明快に定義されてこなかったのは、そことばのあいまいさが形容辞として論争のさいに重宝だからという面もある。しかしどの道、このことばの定義はそう簡単ではない。思想としては単一の命題内容ではなく、相互に関連ある命題が重なりあった状態を指すし、心的姿勢としては通常アンヴィヴァレントなかたちで表わされる(知性あるいは知識人にたいする純粋な嫌悪はまれである)。そして歴史の問題としては──そう言ってさしつかえないなら──反知性主義はつながった一本の糸ではなく、時とともに勢いを変える多様な原因から力を引き出す勢力である。本書では、厳密な──あるいは狭い──定義には固執しない。本書でそうするのはむしろ見当違いだろう。定義というものは論理的には弁護できても、歴史的には恣意的な行為である。そこに利点があるとは、私にはとても考えられない。定義するには、重なりあう諸特徴からひとつだけを選り抜かなければならない。私が関心をもっているのは、この重なりあったもの自体──多くの接点をもつ、さまざまな心的姿勢と理念の歴史的関係を複合したものである。私が反知性主義と呼ぶ心的姿勢と理念の共通の特徴は、知的な生き方およびそれを代表するとされている人びとにたいする憤りと疑惑である。そしてそのような生き方の価値をつねに最小化しようとする傾向である。あえて定義するならば、このような一般的な公式が役に立つだろう。
(後略)

(リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 みすず書房、田村哲夫訳、2003年)
(Richard Hofstadter "ANTI-INTELLECTUALISM IN AMERICAN LIFE" First published by Alfred A. Knopf, Inc., New York, 1963)

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