2015年6月10日水曜日

引用ノック0743:陥穽

 ともあれ、いま見てきたような理由で、この「概念の実体化」の錯誤は、物語をやめて抽象概念の使用を原則とした哲学の思考にとって、本質的な陥穽となった。スコラ哲学におけるいわゆるスコラ論議は、この概念を実体化する論理使用が極端にまでいきつくことで現われた”思考の廃墟”というべきものだし、初期仏教哲学における、存在、無、空、中道の諸論議においても、この傾向は非常に強い。さらに、近代哲学に入ってもスピノザ、ライプニッツをはじめとして、概念実体化の論理はそう簡単に消えない。そしてじつのところ、現代哲学においても事情はさほど変わっていないのである。
 論理使用における概念実体化について深い自覚をもっていた哲学者は、きわめて少ない。ちなみに、ホッブス、ヒューム、カント、ヘーゲル、ニーチェ、などはこの罠にほとんど落ち込んでいない。現代哲学では、とくにフッサールとヴィトゲンシュタインが、この問題についての明瞭な自覚者である。

 ともあれ、こうして哲学は、抽象概念を使用し「原理」を取りだすという新しいルールによって、共同体を越えるより”普遍的”な言語ゲームとして登場したが、抽象概念の使用は、また同時に哲学的思考の独自の難点を作り出した。ここから、哲学という言語ゲームに固有の課題が生じたという点に注意しなくてはならない。すなわち、哲学の思考は、ただ「原理」を研究するという努力だけではなく、同時に、つねに概念の実体化による論理の空洞化に抗いつつこの作業を行う、という課題を負うものとなった。というのも、もしこの課題を怠れば、哲学は必ず、論理に論理を重ねて難問だけを作り出すような空虚な言語ゲームとなり、そのことで、その思考の本質を腐らせることになるからである。
 のちに見るように、ソクラテスは、哲学におけるこの課題についてのはじめの自覚者として登場してくる。

(竹田青嗣『プラトン入門』「第一章 哲学のはじまり 2 「原理」「概念」「パラドクス」」 ちくま新書、1999年)

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